2006.6

2006年6月

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6月30日(金)
 6月も終わり。もう夏ということですが、毎日じめじめ雨が降って、夏だ
という実感が沸きませんね。まあ、雨もじめじめも嫌いではないのでかまい
ませんが。むしろ好きな紫陽花がもうすぐ見られなくなるかと思うとちょっ
と寂しいです。6月は誕生月なので、ちょっと意識してしまいますね。1年
の中では行事もなく地味な月ですが、地味さの中に何かの鋭い芽を隠し持っ
ているような気がしてしまうんです。

 先週、マイケル・ケンナ写真展「In Japan」を見に東京都写真美
術館に行った。ケンナらしい静謐な風景の佇まいに感動。但し、ケンナの写
真は決して端正なものではなく、ぐしゃぐしゃした自意識が元になっている
のではないかと思った。風景との「対話」ということを強調していたが、実
際に彼はぶつぶつ言いながら撮影しているのではないだろうか。美しい風景
を対象にしているのに、都市生活者の孤独というものがにじみ出ている感じ
がした。
 ケンナ展のあとは、写真ギャラリーRooneeで若い人たちのグループ
展を見る。山田素子さんの、小岩井農場の羊を写した写真が、暖かみがあっ
て良かった。

 元同僚二人と池袋で飲む。悩みつつ頑張っている様子に励まされる想い。


6月18日(日)  土日の午後、鈴木志郎康さんの映像作品の個展を見る。場所は小川町のne oneo。三十人ほどの座席はほぼ満杯で、若い人が多かった。土日とも夕方か ら用事があったので、午後上映された『風を追って』『あじさいならい』『 枯れ山搦めて』『気息の微分』『比呂美 ー毛を抜く話』の5作品を見た。  『比呂美 ー毛を抜く話』以外は一度は見たことのある作品ばかりだった が、こうしてまとめて見ると発見があった。80年代の作品は、アフリカの 民俗音楽をバックに使うことが多いが、映画の構造もアフリカ音楽の構造に 割と近い、というもの。志郎康さんの80年代の作品は、旅をテーマに組み 入れたり、他の映像作品を作品内に組み込んだりしているせいもあるだろう が、統一感よりも逸脱、気まぐれな展開を重要な要素にしている。カメラワ ークも、対象にぐっと近づいて舐めるように、肉感的に撮ることが多い。ア フリカの音楽は、リズムやモードに一定のパターンはあるが、それ以外の要 素はかなりフリーで、個人の肉体の欲求が大事にされ、即興性が強い。志郎 康さんの80年代の映画も、「その時に思いついたこと」が追突しあって物 語を作っていく構造を持っている。これが90年代の『気息の微分』になる と、ぐっと内省的・観念的になっていく。その変わり目が興味深かった。   『比呂美 ー毛を抜く話』は、初めて見た作品だったが、詩人の伊藤比呂 美が、自分の体の毛を抜く快感について喋って喋って喋りつくす様がスリリ ングだった。幼児的な感覚の細かい部分をきちんと言葉にしていく才能に恐 れ入る。無邪気さと同時にある種の冷徹さも感じられ、伊藤比呂美の詩を読 み返してみたくなった。  会場で、元同僚の斎藤宣彦さんに会う。漫画の編集の仕事が順調なようで 何より。  18日の夜は、六本木ボデギータでのサルサのライブ。どうせW杯の対クロ アチア戦で客は少ないだろうと踏み、ライブのあとは店のテレビで試合を見よ う、なんて宣伝をしたら、学生さんたちの団体が(恐らく)試合観戦の目的で 来てしまった! なかなか元気のいい連中で、飲むわ食うわ騒ぐわで賑やかな ライブになりました。サルサは初めてだろうに、踊ってもくれたし盛り上げて もくれた。今ドキの若い人たちっていうのは物怖じしなくて良いです。  この日は何と、有名な料理研究家の栗原はるみさんがご来店。ノリノリで楽 しんでいらっしゃいました。こういう感性の柔軟さが、人気の秘密なんでしょ うか。  演奏終了後はお待ちかね(!)のクロアチア戦。実はボデギータは本来店内 でテレビが見られる環境ではなく、室内アンテナを持ち込んでのテレビ観戦に なりました。最初映像が乱れることもあってやきもきしたけれど、何とかなり ました。日本代表、かなり善戦したではないですか。実力的には格上の相手な のに、しっかり自分たちのサッカーをやっている印象を受けました。ゴールキ ーパーの川口がPKを止めたのにビックリ。結果は引き分けで、ブラジル戦は 厳しいものがあるでしょうが、頑張って!
6月11日(日)  大病を患っている叔母を見舞いに、大阪の関西医大病院へ。滝井という駅で 母と妹と待ち合わせ、病室に向かった。  久しぶりに会った叔母は思ったよりも顔の艶も良く、意識もはっきりしてい たが、何しろ痛みがひどいようだ。お見舞いの間中も、体の節々に痛みが走っ て、姿勢をどう変えても緩和できない。付き添っている叔父も、これにはお手 上げのようだ。モルヒネ系の薬は、使用しすぎると「体の芯がなくなる」よう な気分になるという。  それで思ったのは、医療は、病気を完治させることも重要だが、患者の苦痛 を和らげることも同じくらい重要ではないかということ。ペイン・クリニック っていうのかな、これをもっとしっかりやって欲しいですね(その病院がやっ てないということではないのだけど)。もうじき薬も変えるということだから、 そうなれば少し楽にもなるだろう。  叔母と久しぶりに話していて、印象に残ったことがある。ここの病室は小児 科の病棟の中にあるのだが、子供たちの足音とか話す声とかが急に聞こえてく ることがある。子供だから加減というものを知らず、廊下をパタパタ走ったり、 泣いたり、大声で笑ったりしてしまう。その、子供たちがたてる音の動静がと とも心地よい、ということだ。膠着する日常の均衡を不意に破る、野生動物の ような子供たちの行動が、まさに「生きている」「世界が動いている」ことを 感じさせる、というのだろう。叔母は名の知られた詩人で、お弟子さんもたく さんいるような人だから、世界の在りように対する感受性はやはり磨きぬかれ ている。こういう「世界に揺すられる快感」が、病を患った時に恩寵のように 現れるというのは不思議であり感動的だ、と思った。そして、こういう情景を 詩に書いたらどうなるんだろう、なんてすぐ考えてしまうのだ。  帰りは京都にちょっと降り、駅の周り、本願寺の辺りをうろうろ散歩して、 おいしい京つけ麺を食べてから新幹線に乗った。京都の町並みはやはり面白い。 古い古い家の作りが新しい建築物にも引き継がれていて、町全体に有機的な一 貫性がある。古いものをただただぶっ壊してしまう東京とは違うんですね。
6月10日(土)  休みの今日は、例によって12時前に起き、近くに新しくできたイタリア料 理店でナスとベーコンのパスタを食べ(ちょっと脂っこかったけどまあまあの 味だった)、宮崎あおい主演の映画「ラブドガン」のDVDを観たら、また眠 くなってきて2時間ほど昼寝してしまった。通算すると10時間ほど寝たこと になる。ぼくは何故こんなにも眠ることが好きなのだろうか。もう働かなくて もいいよなんて言われたら、一日の半分くらいは寝て過ごすようになるのかも しれないなあ。  夕方から六本木ヒルズの森美術館に「アフリカン・リミックス」展を見に行 った。実は森美術館は今回が初めて。六本木ヒルズの高級感と混雑ぶりが性に 合わないので今まで足を運ぶのを敬遠していたが、展覧会自体はかなり面白か った。  この企画展は、現在活躍中のアフリカの「25カ国・84名」のアーティス トの作品を紹介することで、アフリカが置かれている状況を再認識してもらお うという趣旨のもの。  今なお続くアフリカ世界の西欧への従属的立場の告発、アフリカの西欧化へ の疑義の提示を行う作品が多く、やや政治色の強い雰囲気があった。自国が置 かれた状況を冷静に批判できるということは、アーティストが知識人としての 自覚を持っているということでもある。事実、アーティストの多くは西欧で美 術を学んだエリートが多いようだった。彼らは絵画や彫刻の技法を学ぶと同時 に、西欧批判の理論も西欧で学んできたわけだ。  だからメッセージ性の強い作品にはやや弱さも感じないわけではなかったの だが、そういう要素を吹き飛ばすような、造形のダイナミックさがあった。ほ とんどの作品は、「額縁」をはみ出す構造を持っていた。インスタレーション やミクストメディア作品の比率が多いということだけではなく、シンプルな絵 画や写真作品でも、作品が作者の内面の中で完結せず、作品が生まれた社会的 な土壌との関係を強く印象づける工夫が凝らされていた。文明批判のメッセー ジが、明るく軽ろやかに、ユーモアさえ交えておおらかに表現されていくとこ ろがとてもいい。美術はみんなで楽しむ、社会問題はみんなで考える。アフリ カのアーティストの作品には「みんな」が生きている。この「みんな」からは 学ぶものが多いと感じた。日本の芸術にとって「みんな」とは何か? 現代詩 という、一番「みんな」意識から遠いものを表現手段として選んだ者として、 考えさせられるところが多かった。  先週、朗読のパフォーマンスを見て「ヴォイスワーク」なるものに興味を持 ち、ネットで調べたりしたのだが、どうもこれは、声を鍛えることで心身の自 律性を回復する、役者の自己治療的な側面も備えていることがわかった。役柄 に従属することに凝り固まった意識をとぐほぐすということ。観客へのサービ スの前に、役者自身が自分の身体の個性を認識することで癒しを得る。癒され て余裕のできた意識は、自由に空間を解釈することが可能になる。その様子が 伝わって今度は観客が癒される。この「ヴォイスワーク」のシステムは、アフ リカのアーティストの奔放な創作態度と通じるものがあるように思える。自己 と自己、自己と他者、自己と空間とのコミュニケーションの問題が、表現の基 礎に据えられているということだ。これについて、もう少し時間をかけて考え を深めていきたい。  
6月4日(日)  友人の詩人今井義行さんから、詩の朗読会の案内を受けたので足を運んだ。 場所は二子玉川の玉川キリスト教会で、地下一階の公民館のような感じのスペ ース。30人くらいのお客さんが入っていたけれどこの辺りの信者さんたちだ ろううか。一種の顧客サービスですね。いかにも地域密着型の活動という雰囲 気が、新鮮だった。  催しは、ただ作品を朗読するのでなく、パフォーマンスとして綿密に演出さ れた形で行われた。複数の役者がステージにあがり(と言っても壇上ではない が)、かわるがわる各々が選んだ詩作品を、「演じて」いく(今井さんの作品 の他に、谷川俊太郎、金子みすずらの作品が選ばれていた)。朗読をしない役 者も、背景で舞台を盛り上げる動きを欠かさない。常に「場」が動いているこ とになるわけで、終始緊張感が途切れることがなかった。  この朗読会は、アメリカで「ヴォイスワーク」という、独特の身体訓練法を 学んできたノリコ氏によって企画されたものだ。初めてなので理解していると は言えないが、ぼくが見た限りでは、これは言葉を発するという行為を中心に した一種のダンス・パフォーマンスである。演劇が「物語」を中心にしたもの であるのに対し、「ヴォイスワーク」は「発語」の概念を中心に展開される。 したがって言葉と身体との関係が通常の演劇よりも近く、身体が物語をなぞっ ていくというよりは、身体の動き・発声の一つ一つに物語性を見て取っていく ことに注意が置かれているようだ。  だから催し全体としてはとても良かったのだが、言葉の意味内容に捉われず に、「発語」それ自体にぐっと焦点が当たっていればもっと面白かったことだ ろう。役者さんたちは皆非常によく訓練された身体を持っていたから、やろう と思えばメレディス・モンクのようなパフォーマンスもできたかもしれない。  今井さんが朗読した「おとこおんな」という詩は、教会の空間の中で聞くと 面白い。身体がどうしようもなく備えてしまう(備えさせられてしまう)セク シュアリティの問題が、宗教的な問題として提起されているかのようで興味深 かった。  お客さんの中で目の不自由な方がいらしていて、盲導犬を連れていたのだけ ど、盲導犬というのはほんと利口なんですねえ。主人を席まで導いていってち ゃんと腰掛けたのを確認すると、主人を守るかのように自分も地べたに伏せる。 演出として照明を時々明るくしたり暗くするのだが、その時だけふっと顔を起 こして周囲を見渡す。犬にとって今回の朗読会はどんな光景に映ったのだろう。 ぼくはこういうことがすぐ気になっちゃうんですね。  久しぶりに来ると二子玉の駅前も結構変わっていて、以前にはなかったオシ ャレな店が立ち並んでいた。それでも商店街は昔のままでちょっと安心。