2006年8月

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8月27日(日)
 残暑お見舞い申し上げます。
 夏休みは、大阪に叔母のお葬式に行ったり、部屋の片付けをしたり、それ
と会社の仕事を持ち込んでやったりで、あっという間に過ぎてしまいました。
どこへ出かけるわけでもなかったのですが、とにかく体がすごく疲れている
ことがわかったので、骨休みできたのが何よりでしたね。

 読んで気になった詩集の感想は簡単でもなるべく書くことにしていたが、
川口晴美さんの『やわらかい檻』(書肆山田)に触れるのを忘れていたので
遅ればせながらここに記すことにする。
 この詩集は数編を除き、散文体で書かれている。そして全ての詩が物語性
を持っており、可能な限り意味の取りやすい、主語−述語、起承転結のはっ
きりした文で書かれている。にもかかわらず、小説の言葉からは非常に遠い
印象を受ける。小説では、どんなに内向的な傾向を持ったものであっても、
話者や登場人物の内面が小説世界内に設定された「社会」の中に位置づけら
れるように描かれる。しかし、川口さんの散文詩においては、世の中の全て
の現象が話者の内面の中で起こったかのように描かれていく。話者が触れた
瞬間に、外部の世界は輪郭を危うくし、「わたしの物語」の中に取り込まれ
てしまう。そしてその「物語」は、話者が心の底にいまだに住まわせている
少女(或いは幼女)時代における母親への微妙な感情と孤独感をベースにし
ている。肉体的にも社会的にも力を持たない子供にとって、親や地域社会と
の一体感は欠かせないものだが、それが十分に得られなかった不安感が、家
族や社会に対する微妙な恐怖感を生成させる。
 微妙な体験の重なりのトラウマが、大人になった話者に対し遅効性の毒の
ような傷みをもたらすのであるが、その鈍い痛みを解明するために、様々な
シチュエイションを設定し、物語を吐き出していくのだ。だから、結果とし
て物語的な流れにはなっているけれど、実は物語は重要ではなく、気持ちの
揺れ具合だけが問題になる。
 この詩集の言葉は全て、作者の気持ちのモードに忠実に従って書かれてい
るので、それにノレる人には作者の痛みを共有できる。逆に言えば、ノレな
い人は置き去りにされてしまう。平易な言葉で書かれてはいても、実は作者
は決してサービス精神が旺盛ではないのだ。
 そこでぼくは、自分が女優になったつもりで(男性であってもですよ)、
「わたし」を演じるかのように読むことを、この詩集を読む最良のやり方と
して推奨したい。台本として詩の言葉を読むということ、どうだろうか?

 土曜日に新宿ゴールデン街でミニライブ。サルサバンドの有志で流しのバ
ンド風に演奏する。打ち合わせも何もない、その場の雰囲気に合わせた演奏
だったが、お客さんはそれなりに喜んでくれたようで一安心。ゴールデン街
の人たちはホントにイベントが好きですね。それに夜に強いですね。終った
のが11時半だったのに、みんな元気でびっくり。この店は二階もあって、
仮眠も取れるようにできているから始末が悪い。結局泊まっていった人もい
たようです。ぼくは何とか帰りましたが。


8月13日(日)  暑いですね。やっと日本の夏がきたかな、という感じ。子供の頃はクーラ ーもなく、扇風機だけで夏を乗り切っていた。今となっては信じられない気 がするが、そういうものだと思えば何とかなるもんなんですよね。20年前 はこんなに暑くなかったし。  昔、ぼくが西船橋の書店で働いていた時にアルバイトできてくれていた人 と久々に会ってご飯を食べた。今ぼく住んでいるところの近所に住んでおり、 今度銀座に出店するベルギー・チョコレートの店に再就職するという。  ホント、立派になりましたねえ、という感じ。わざわざ請われて入社する ことになったのだが、業績を上げるとともに、従業員を守るという発想でい くと語っていたのが印象的だった。考案したショコラのメニューが各国の支 店で販売されるというのにも驚かされた。それと同時に、育った家の古い家 風に苦しんだことがあったことを初めて聞き、それを克服するための努力が 並大抵でなかったことを想像して涙する想いがした。  国家に歴史があるように、人にも家にも歴史があって、変革の必要が訪れ ることがあるんですね。そういう時、何事もうまくいかないと思えていた過 去の自分を、否定するんじゃなくて抱き締めて愛してあげて、また苦難を耐 えてくれたことに感謝する気持ちを持つのがいいのではないかと思いました。 お店に行ったら、きっとおいしいショコラが飲めるだろう。   ワタリウム美術館に「さようなら、ナム・ジュン・パイク」展を見に行く。 今年の1月に亡くなったメディア・アーティスト、パイクの仕事を回顧する 企画で、ビデオ・アート作品の展示が中心だった。こうしてパイクの作品を 一覧してみると、思っていたより東洋志向・アジア志向の強い人だったこと がわかった。また、個人ではなく、文化・文化圏という単位で表現を考えて いた人であることもわかった。良心的なグローバリゼーションを推奨して東 西を融和させ、大衆と知識人を融和させようとする彼の戦略は、わかりやす くて力強いものに思えたが、同時に、やや単純すぎて平板な印象も受けてし まった。ぼくは孤独な人間の「個」の中身に拘りたいし、また「個」と「個」 がくっついたり離れたりする運動の方に注意を向けたい。  パイクは飛び切りのエリート芸術家の経歴の持ち主だったから、「大衆」 や「文明」に対する責任を負う必要を感じていたのかもしれない。無論、そ れを全身全霊をこめて行う姿勢には、迫力を感じた。ワタリウム美術館の展 覧会は、会期中何度でも入場できるから、もう一度足を運ぶことにしよう。  癌で闘病中だった叔母が亡くなった。明日は告別式に参列するために大阪 へ行く。今までかわいがってくれてありがとうございました。安らかにお眠 り下さい。
8月6日(日)  イスラエルとヒズボラとの争いが泥沼化している。非戦闘員が死んでいく 事態に対して、両者とも最早何の配慮もしないというのが恐ろしい。どちら も宗教をバックにした共同体であるのに、個々の人間の死に対して鈍感なの はなぜか? 神の怒りに触れるなどと思いはしないのか? アメリカはなぜ 調停をしないのか? 中東が争っているほうが存在感を誇示できて都合がよ いと思っているのか? とすると「国際社会」というものはもう「終って」 しまったのか? などと考える。  悲しい報道を耳にしたあと、玉川キリスト教会で子供たちのための朗読劇 「禎子と千羽鶴」を見た。演出・主演・脚色は、以前に詩の朗読パフォーマ ンスを聞いたnorikoさん。彼女の友人や生徒さんと一緒に、この教会を拠点 にして自主的な演劇活動を継続して行っている。観客は多くはないが、熱心 であり、そのせいで演技者たちも媚びた演技をする必要がない。そういうと ころが気に入ってぼくも何度か足を運んでいるわけだ。  今回の演目は、広島で被爆して白血病に冒されてしまった少女・禎子が、 幼馴染の少年に励まされながら回復への祈りをこめて千羽鶴を折る、という あのよく知られた物語である。禎子は死んでしまうが、千羽鶴を折る行為は いつしか平和運動への大きなうねりになっていくわけですね。  norikoさんの演じた禎子が、徹底して心の健康さを失わない、溌剌とした かわいらしい少女であったのが新鮮だった。湿っぽい雰囲気で演じられると 観客の意識はその場限りの「かわいそうな少女」という記号にばかり向かっ てしまうが、凸凹のある「どこにでもいる明るい少女」として演じられると、 こうした健康な魂の持ち主がなぜ本来の寿命を全うできないのか、という疑 問が沸き、観客の子供たちの、社会に対する目を養うことになるだろう。  相手役の男の子を演じた大倉一哲さんは、行儀は悪いけれど根は優しくて ちょっとシャイでもある性格を、コミカルな動きも交えてうまく伝えていた と思う。  映像に慣れた子供たちに、ナマの演技の迫力は新鮮だろうから、こういう 場があることは貴重でしょうね。  仕事で、読者から創作怪談を募ってコンテストを開くという企画を受け持 っているのだが、土曜日に新宿のルノアールでその選考会を行った。選考委 員は作家の加門七海氏と福澤徹三氏、司会がホラー評論家の東雅夫氏、選考 過程の原稿のまとめが敏腕のライター&カメラマンのタカザワケンジ氏。投 稿数が昨年の倍近くもあり、レベルも高いところで拮抗しているので選考は 難航を極めたけれど、何とか受賞作を決めることができてほっとした。3時 間フルに使って討議がなされていました。それにしても、加門さんも福澤さ んも、些少すぎる御礼にもかかわらず、一作一作本当に丁寧に読んでいるの には驚かされました。怪談が好きでないと、そして怪談文学を広めることに 強い使命感を持っていないと、ああはできないなあ、と思う。本当にお疲れ 様でした。  終了後は近くの飲み屋で打ち上げ。梅酒のうまい店で、結構飲んで酔っ払 ってしまいました。仕事というよりも、サークルの先輩と飲んでいるみたい な雰囲気で楽しかった。先生方の本、しっかり売らないと・・・。