2007年1月

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1月27日(土)
 昼過ぎまで寝て、午後は「中村宏・図画事件 1953-2007」を見るた
めに東京都現代美術館へ。 中村宏は50年代半ばから活動している
画家で、最初は戦後の光景を「報道」の形で描いた政治色の強い作風
(といってもモダニスムの技法がふんだんに用いられている)、60
年代―70年代は、シュールリアリズムの影響が強い幻想的な作風と
大胆に作風を変えていったことでも知られている。漫画やサブカルチ
ャーの要素を取り入れたグラフィックアートも数多く制作し、つげ義
春や寺山修司、土方巽らとの同時代性も感じさせられる。
 今まで、時代が吐く息の荒々しさ、時代の空気の熱さと共闘する<
お祭り>タイプの画家と認識していて、事実そうなのだが、この展覧
会ではぼくが初めて見る80年代以後の近作も展示しており、この画
家の更なる変貌ぶりに驚かされたのだった。
 70年代中盤からは、航空機のコックピットなど、乗り物の機械シ
ステムをスーパーリアリズム的な精密な描き方で写し取った作品が多
く描かれるようになる。それらは、今までの作品で特徴的だった「熱
さ」を剥ぎ取った「冷たさ」が印象的である。とりつくしまがないよ
うだが、提示されたマシンの独自な生命のあり方から目が離せなくな
る。80年代の後半に入ると、コンセプチュアル・アートといってよ
いような、「絵画」の限界を越えた作品が多く制作されることになる。
「立ち入り禁止」の標識を展示したものだったり、複数の、互いに関
係がないように見える絵画や映像を組み合わせて一つの作品を作った
り、である。視覚情報から「作品」を組み立てるのは鑑賞者の仕事で
あり、いわば鑑賞者はこれらの作品を見ることにより、美術館の中で
パフォーマンスを行うことを、引き受けさせられてしまうのである。
こうした、「参加する美術」はアジアの現代美術ではもうおなじみと
いう感があるのだが、中村宏のような視覚イメージに拘っていた画家
の手にかかると、「参加する美術」も気楽な参加ではなく、何か「事
件」に遭遇したような緊迫感を帯びるから不思議である。
 変化できる人はどんどん変化していくものだ。

 現代美術館では他に、新しい世代の作家の作品を展示した「MOT
アリュアル 等身大の約束」展もやっていて、こちらも面白かった。
特に、しばたゆりの作品は、身の回りの出来事を細々した「物」に落
とし込んだ作品を発表していたが、これらは見ただけでは作品かどう
かわからない。手描きの絵もあるが、絵の成立の背景を知ることとセ
ットでなければ意味がない。全体に、説明の文章をしっかり読むこと
が求められるし、展示スペースの使い方を含めてようやく表現として
成立しているところがある。その意味で、ある決められたフレームの
中で個人の内面の表出を行う近代美術の枠を、完全にはみ出している
と言える。しばた他の新世代の美術家たちは、生活の再解釈・生活の
展示と言えるこうした表現を、ごく自然体で行っているように思える。
そこが新鮮で、刺激的だった。


1月21日(日) 新宿2丁目のバー「非常口」でサルサのライブ。といっても今回は 単独ライブではなく、「黄金のヤングカーニバル〜君ヲノセテ 07新 春〜」というちょっとふざけた名前の催しの中での演奏です。2丁目 やゴールデン街に出入りしている人たちが企画したもので、タイトル からもわかるように、70年代―80年代初期のレトロな雰囲気を演 出して楽しむ会ですね。当時の歌謡曲を歌って踊る若い女の子たちの グループ・デリシャスウィートス、既に何枚かのアルバムを出してい る歌謡歌手・浜ユウスケ、司会もつとめる活弁士の山田広野、ダンス パフォーマンスでは、ポールダンスのポール舞とセクシーダンスのT AMAYO、といった芸達者な方々に混じり、不器用なウチのバンド は淡々とマジメにサルサの演奏を行いました(しかもトリ。それなり にウケていたようです)。  特に山田広野さんのパフォーマンスが面白い。自作の無声映画に合 わせて(多分半分即興で)活弁をつけていくのである。まあ、一種の 落語ですね。一番近いのは「紙芝居屋」でしょうか。女の子は女の子 らしく、中年男性はおやじっぽく、声色と喋り方を工夫して物語を盛 り上げていくわけです。ああ、無声映画の時代には「人気活弁士」と いう存在がいたんだな、とわかりました。中にはあの活弁士がいるか らあの映画館に行こう、なんてこともあったかもしれない。  ポールダンスも初めてナマで見たし(会場に建てたポールを使った セクシーダンスだが、体の柔らかさと腹筋背筋の強さに驚かされた)、 TAMAYOさんとは共演もさせていただいた。  レトロがうたい文句なのだが、来ている人はむしろ若い人が多い。  古いものと新しいものが混雑する新宿2丁目―ゴールデン街文化は、 一度知ったら病みつきになりますよ。
1月14日(日)  サントリーホールで小林研一郎指揮日本フィルの定期演奏会を聞く。 曲目は、チャイコフスキーの「オネーギン」から「ポロネーズ」、シ ベリウスのヴァイオリン協奏曲、チャイコフスキー交響曲第5番。コ バケンらしい激しいアクションは、見るだけでも面白いが、その棒の 先から流れ出る音楽は表情が豊かで、歌心に溢れている。ポロネーズ で聞かせたこぶしの効いた節回しは、ヨーロッパでの長い経験の厚み を感じさせる。フレーズを自在にひねって、「泣かせる」音楽を作っ ていく。何と言うか、とても人情味のある音楽なのだ。ヨーロッパで も日本でも、人気があるのは当然だろう。 シベリウスでソロを弾い たアナスタシア・チェボタリョーワの演奏も、情熱的ですばらしかっ た。  ステージに登場する時の、軽く駆けるような軽い足取りが目を惹く。 また、演奏会の終わりに、退団するチェロ奏者への感謝の意を述べ、 同時に日本フィルの宣伝も述べていたが、この喋りのうまさも魅力の 一つであろう。ショーマンシップを身に着けた音楽家ということがで きるかと思うが、こういう要素も、クラシック音楽を根付かせるのに 意外と必要なのかもしれない。  帰りに平凡社の福田さん、集英社の柿沼さんとお茶。互いの近況を 聞いたり、日本の軍国主義化を心配したり。  二つの展覧会を見る。  横山大観の40メートルにも及ぶ絵巻「生々流転」が公開されると いうので近代美術館へ。大作ではあるが、荒々しさはない。鳥が飛ん でいたり、猿が遊んでいたり、薪を背負った村人が歩いたり、といっ たのどかな風景がひたすらのびやかに描かれる。そうしているうちに、 流れていた川は次第に流れを大きくし、海に流れ込み、沖へ沖へとい くうちに、海と天との境が曖昧になって、遂に龍が現れる。丁寧な写 実と抽象表現が無理なく合わさっていて、いつまで見ても見飽きない。 人間や自然を、生活の次元で捉えるとともに霊の次元でも捉える、作 者の世界観がすーっと胸に入ってくる感じだった。  もう一つは現代美術で、「ボロボロ ドロドロ展 帰ってきた日本 のサブカルチャー」(ワタリウム美術館)。ニューヨークを中心に活 動を続ける河井美咲とテイラー・マッキメンスの作品を展示したもの。 河井美咲の作品は、日本の女の子の部屋をイメージした、巨大なオブ ジェ。異形のドールハウスと言ったほうがいいだろうか。わら半紙に さらっと描いた夥しい数のドローイングもある。彼女の狙いは「かわ いい」という概念の抽象表現ではないかと思える。マッキメンスの作 品は、日本のサブカルチャーに影響された絵画ということだが、ぼく にはアメコミの現代美術化という感じがした。日本のサブカルチャー では複雑なイメージが緊密に結びついてある単一の明快な意味を伝え ていくが、彼の作品には準言語的なイメージの意味作用は読み取れな いからだ。アメリカの日常風景の中に、「ドロドロした」グロテスク な何物かが出現する。それは、一見気持ち悪いけれど、丁寧にきれい に描かれており、見るほどに一種の清潔感が出てくる。普段は目を向 けたくない日常に潜む影の部分を白日のもとに晒し、鑑賞者に徐々に 受け入れるようにする試みだと感じた。  どちらも面白かったのだが、イメージからもっともっと複雑な意味 を引き出して欲しい。特に河井の作品は、ぱっと見には造形が凝って いて楽しそうなのだが、「かわいいもの」を現代美術化するという以 上の広がりを感じることができなかった。もっと個人的で実存的な衝 動を織り込んだほうがいいのではないか、と思った。  ぼくはたいていの休日は、こんな「文化的なもの」を追っかける形 で過ごしている。真剣に鑑賞しているし、心地よいのだが、最近、自 分の態度にだんだん疑問も感じるようになってきている。つまり、ぼ くは「人」を介さないで、いわばショーケースの外から作品に接して ああだこうだ言っているわけですね。もちろんこれはこれでいいのだ し、仕方ないのだが(だって横山大観に会うわけにはいかないし)、 もうちょっと熱い出会いが欲しくなってきたところです。つまり、芸 術作品について、もっと人と話がしたい、ということです。芸術家当 人や周囲の客、友人の反応を見ることまで含めて鑑賞したいなあ。  ちょっと考えてみます。
1月7日(日)  明けましておめでとうございます。  今年もよろしくお願いします。  年末年始は例年のように何もせず、寝てはテレビを見るか本を読むか、 時には散歩、という毎日を過ごしました。それにしても「実家」という 奴はなかなか心地よいもんです。母親が時間の最低限の流れを仕切って くれますから。これは確かに一つの「幸福」であるに違いなく、非常に ありがたいものだと思わずにはいられない。そういう年齢に達した、と いうことですね。親孝行ということもそろそろ真剣に考えなくてはいけ ない―寝坊しながらそんなことを考えていました。  妹夫婦の家ができたので見に行った。ちょっとそっけない外観の狭小 住宅なのだけれど、中に入るといろいろ工夫がしてあって驚いた。二階 まで大胆な吹き抜けになっていて、空間がぱっと開けて見える。そして いわゆる部屋の他に、細かな仕切りが幾つもあって、用途別の空間の使 い分けができる。押入れのスペースも広い。建築士のアイディアに任せ て作ったということだけど、建売りの住宅と違って、設計した人の思想 がちゃんと見える。いい家を作ったなあ、と感心した次第だ。ぼくは一 戸建てを建てることはまずないだろうけれど、建てるのだったら建築家 とよく相談して、「考えのある家」を作ったほうがいいですよ。  お正月の間はヒマだったので、家の周りをよく散歩した。それで痛感 したのは、山や野原がやたらと切り開かれていること。神奈中のスポー ツ施設があった場所は、遂に住宅地になってしまうらしい。実家のある 神奈川県伊勢原市は、少子化の時代にあって、人口は少しだけど増えて いるとのこと。それはそれでいいのだが、昔からの住民に何か元気がな い感じがしてしょうがない。遊ぶ場所、人が交流するスペースというも のがどんどんなくなっていって、郊外化が極端に進んでしまっている。 農村部はまだ残っているけれど、野山がとても薄くなってしまっていて、 つまり「無駄な空間」という贅沢が暮らしから失われつつあるように思 えるのだ。これで工業が衰退し、人口が減っていったら、殺伐とした光 景だけが残るのではないかと心配です。