2007年4月

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4月30日(月)
 新宿パークタワーホールで開催されているイメージフォーラムフ
ェスティバルに足を運ぶ。AプロとFプロを見た。
 大力拓哉+三浦崇志の「タネ」と福井琢也「グージョネットと風
車小屋の魔女」が特に印象に残った。「タネ」は長い箱を担いで歩
く友人同士のような男たちの話。最初4人だったが1人帰り、3人
で山の中を他愛もない雑談をしながら歩く。箱を担ぐ理由は最後ま
でわからない。やがて2人が行方不明になり、何やらちょっとホラ
ーテイストになりかけるが、その1人は来た道を引き返し、行きの
道で気になっていた木の実を拾って食べるところで終る。一種の不
条理ドラマだが、明るくも暗くもない日常がそのまま大きな魔に包
まれているのではないか、という感覚が面白かった。ただ、後半話
がごちゃごちゃしてしまってわかりづらいところもあった。「グー
ジョネットと風車小屋の魔女」は、体の左側を失くして魔女に助け
を求めるというおとぎばなしのナレーションと、恋人を亡くして心
を閉ざしている女性の話とが並立して進んでいくというもの。二つ
の話が重なったり重ならなかったりする揺れが楽しい。最後になる
ほど重なりすぎてしまってスリルを欠く結果になってしまったのが
残念だった。それと奥山順市「8ミリ・ミシン」は、8ミリフィル
ムにミシンで穴をあけてしまう荒業を作品化したもので、いつもな
がらの奇抜なアイディアとユーモラスな語り口に惹かれた。何とミ
シンでフィルムを加工する実演もやってのけ、周囲を沸かせた。
 帰りに鈴木志郎康さんに会い、映像作家の鈴木余位さんを紹介し
ていただき、一緒にお茶を飲んだ。余位さんの作品の面白さについ
て志郎康さんからいろいろお話しいただいたので、いつか見に行こ
うと思う。


4月29日(日)  スクロヴァチェフスキー指揮読売日本交響楽団の演奏会を聞きに 行く(東京芸術劇場)。  曲目は、前半がオネゲルの「交響曲2番」、メシアン「我死者の 復活を待ち望む」、後半がブラームスの「交響曲2番」。前半は、 モダニストであったスクロヴァチェフスキーが青年時代から同時代 の優れた音楽として支持していた作曲家の作品を配置し、後半はポ ピュラーな人気曲で保守的な大衆も満足させようという意図なので あろう。オネゲルやメシアンはなかなか定期演奏会のプログラムに あがってこないので生で聴けるのはとても嬉しい。  そしてこの前半がものすごく良かった。オネゲルは弦楽合奏を主 体とした曲で(最終楽章にトランペットが加わる)、ドラマティッ クで重厚な音楽。ショスタコーヴィッチを思わせるような部分もあ る。スクロヴァチェフスキーはきびきびと緩急をつけて指揮し、緊 張が漲った演奏になった。メシアンは、一転して弦を除いた、管楽 器と打楽器による大曲。ミスティックな響きに魅了される。特に打 楽器の使い方は、西洋音楽の域を超えた、密教の音楽のようなおど ろおどろしさがある。スクロヴァチェフスキーはこの曲の「怖さ」 を引き出すような、激情的な指揮振りだった。後半のブラームスは とても繊細な演奏で、ブラームスの書いた細かい楽句をきちんと聞 かせようとする。その割にはテンポを大きく動かすのでオーケスト ラは大変だったろう。ブラームスの2番はメロディーだけだと穏や かな佳曲という感じだが、注意深く聞くとあちらこちらで複雑な動 きがあり、響きを故意に不安定にしようとする意図が感じ取れる。 スクロヴァチェフスキーの演奏はそうしたブラームスの現代音楽性 とでも言うべき要素を表面化させるものに思えた。  スクロヴァチェフスキーはもう80歳を過ぎているのだが、指揮 の運動量が多く、曲の細部への指示も行き届いている。テンポの揺 れも考え抜いてそうしていると思えるし、全体として非常にてきぱ きとした演奏になっている。目をつむっていると、老境にある演奏 家の音楽とは思えない。読響は、彼の高い要求によくついていって すばらしかったが、低音部がもっと深々としたサウンドであればな お良かったことだろう。  帰りに友人の守屋さん、原口さんと飲んで音楽のすばらしさを語 り合ったり仕事のグチを言ったりしました。
4月28日(土)  五十嵐倫子さんの詩集「空に咲く」を読み終える。  気取りのない詩集だった。これは詩集としてとても珍しいことだ。 詩を書くことは、何よりも自分の内面を曝け出すことであろう。こ の曝け出す行為は、詩の場合小説よりもずっと強く働く。物語を進 行させる機能を果たすために造形された小説の登場人物と違い、詩 は、「私」から全てが始まる。従って「私」に過剰な精神的な価値 を負わせようとする力が働いてしまいがちになる。現代詩では「私」 を聖化しようとするベクトルが働くが故に、現実の「私」からどん どん離れていってしまう、という現象が起きてしまう。  「空に咲く」は、そうした「私」に重みづけをしようとする欲望 から自由である。日常の中で咲く小さな小さな「私」が、そのまま の「軽さ」で、しかし切実な現れ方で、現れる。そのことにとても 好感を持った。  「One Scene」は、画廊で出会った一枚の絵から膨らんだ一瞬の想 像について書いている。赤い服を着た女性がヨークシャーテリアを 連れている絵だが、「私」には犬がこちらに走ってきたいのに「ま て」を命ぜられて動けないように感じられる。そして犬も自分も「 まて」から解放されることを願う。  「たいやき 友だち」は、何もすることがない、ということを等 身大で描いている。日曜日の夕方にショッピングセンターに行って たいやきを買い、帰りに公園で偶然出会った見知らぬ男と一緒にそ のたいやきを一緒に食べる。  「傘を杖にすれば」は、ヨッパライのまねをして傘を杖にして歩 くことを思いつき、水たまりを飛び越えたり、熱中しすぎて信号無 視までしてしまう程ノッてしまう、という詩。  「悲しい人いませんか?」は、勤め帰りに墓地に寄り、母親の墓 参りをするうちに、亡くなった他の人のこと、死という現象そのも のに想いを巡らすという作品。死生観が具体的な行動や情景に即し て素直に語られる。  他にも興味深い作品があった。三枚目を演じることも辞さず、主 題にした場の空気をとても大切にし、自分を場の空気にすんなりと 溶け込ませている。表紙は、ケータイで撮った花の写真を配置して 作ったというが中身によくフィットしている。ただ、悪意とか非現 実的な妄想とかいった要素も織り交ぜると、詩に複雑な味わいが増 すかもしれないとも思った。  とにかく彼女の詩は、「詩人」の詩でなく生活者が生活の空気を 伝えるために書いた詩である。こういう詩なら毎日でも読みたいも のだ。  今日は、外苑前のギャラリー「ときの忘れもの」で小野隆生の鮮 烈な肖像画を見てから、溝の口のスタジオでジャムセッションに参 加した。主宰は「溝の口ジャズ同盟」というサークルで、溝の口周 辺に住むミュージシャンが中心になってジャズのセッションを定期 的に行っているという。初心者に近い人から年季の入った人まで、 15人程のプレイヤーとスタンダードナンバーを演奏した。終った 後、近くの中華料理屋で飲む。音楽の好きな人と和気藹々と話をす るのは楽しいですね。
4月22日(日) 鈴木志郎康さんから多摩美術大学映像演劇学科年報「映像演劇」第 2号をいただく。この号は、今年多摩美を退職された劇作家の清水邦 夫氏を特集している。志郎康さんは親しかった同僚の清水氏の主要作 品の多くを読み、原稿用紙50枚にも及ぶ長大な論考「愛を生ききる 台詞」を寄せている。  この論考は、一つ一つの戯曲を丁寧に紹介しながら、台詞が登場人 物たちの間で果たしている役割について省察するというものである。 つまり、清水邦夫論であると同時に、戯曲における台詞論にもなって いるというわけだ。  志郎康さんは、清水作品の中で、登場人物たちが「台詞」を生きる ことで愛を実現している、という点に着目しているようだ。人間には 誰しも自意識がある。だから、他人と向かいあうときは、多かれ少な かれ「役者」になる。芝居の中での台詞の機能と、人が人に対して熱 く向きあう時の対し方が、せめぎあうように、二重写しになるように、 作品が作られているということか。だとすると、清水邦夫の戯曲は、 凝りに凝った構成を持つ虚構でありながら、同時に通常の人間の動的 なコミュニケーションの在りように極めて近いものだと言えないだろ うか。特に実現できなかった愛情関係や理想を、悔恨の念にかられ、 取り戻そうとする際、人間はどうしようもなく芝居がかってしまうの だろう。  志郎康さんは、清水戯曲を怜悧に分析しながら、人が言葉を生きる、 或いは言葉に生きられてしまうことの意味を、作者にも登場人物たち にも近い距離で、親密さをもって語っているように思える。そして、 この文章は、批評であって批評でない、公開された手紙のように感じ られる。批評の言葉も、著者と読者に向けられた一種の「台詞」であ り、そこでは「愛」が語られている、というふうに読めたのだった。  ぼくも作品を寄せさせてもらった詩誌「モーアシビ」9号ができあ がった。七月堂で本を受け取りに行こうとしたら、移転している。今 さらながら、十年近くも七月堂さんにお邪魔していなかったことに気 がついた。交番で住所を聞いて駆けつけたがもうみんなはいない。そ れでも、目星をつけたイタリアンレストランで同人を発見。白鳥信也 さん、北爪満喜さん、川上亜紀さん、沢木春成さん、五十嵐倫子さん とワインとビールを飲みながら話をする。五十嵐さんから詩集「空に 咲く」をいただく。繊細な手作り感があって、読むのが楽しみだ。  今週も結構トランペットの演奏をした。水曜日に渋谷のko koでジャ ムセッション、土曜日にレギュラーバンドの練習をやり、その後渋谷 のジャムハウスでセッション。22日は新中野の弁天でサルサのライ ブをやりました。初めての店でしたが、かなり盛り上がって、アンコ ールを3曲もやり、休憩なしのぶっ通しで1時間半もやりました。疲 れましたねえ。でも終演後のビールはうまかったですよ。
4月15日(日)  金曜日に、生まれて初めてストリートの演奏を体験しました。上村 さん(G)小宮山さん(B)内藤さん(DS)にぼく(TP)の即席 カルテット。吉祥寺駅のタクシーロータリーの隅っこに陣取り、夜の 8時半頃開始。この界隈には他にもストリートのバンドが演奏してい るのだが、ジャズはウチのバンドだけ。ロックをやっている連中の周 りには若い子が熱心に聴いているのに、ウチのバンドの前では素通り していく人が多くて悔しかった。でも、やがてちらほら足を留める人 も出てきて、座り込んでずっと聴いてくれる人や話しかけてきてくれ る人も出てくる。お金を投げてくれる人は残念ながら余りいませんで したが、スタンダードジャズも結構人気あるじゃん!などと思ってし まったのでした。最後はお巡りさんに注意されるまで、11時まで熱 演しました。ああ面白かった。くたびれ果てましたが、またやりたい ですね。  土曜日はジャズバンドの練習をやり、そのまま渋谷のジャムハウス でセッションにも行ったので、音楽漬けの週末を過ごしたことになり ます。ああ、しかもこれからサルサバンドの練習もやるんだ(笑)。 来週は中野の弁天でライブがあります。  『グールドのシェーンベルク』(筑摩書房)、読み始めたら止まら ない程の興味深い内容。ピアニストのグレン・グールドが敬愛する作 曲家のシェーンベルクをテーマにしたラジオ番組を単行本にまとめた ものだが、彼の独特な音楽観を一般の音楽好きに伝えようと工夫を凝 らしているのがよくわかる。ユーモアもたっぷりで、相方のグールド に対する質問事項までグールドが考えたらしいというから、立派なシ ナリオライターと言ってもいいだろう。  但し、中身は実に真面目なもの。シェーンベルクの様々な側面を1 0回に渡ってじっくり分析していく。シェーンベルクの調性時代から 晩年に至る和声の考え方の変化を、「接続リンク」をキーワードに説 明しているところが特に面白かった。複数の和音の仲介としてリンク となる響きを使っていたが(調性時代)、やがてリンクの持つ独特の 緊張感を重視してリンクの響きそのものを自律させる方法を取るよう になり(無調−12音技法時代)、やがて調性的な和音を不協和音の 中で、接続リンクを最小限に抑えながら使用するようになる(アメリ カ時代)。晩年の保守主義と見える技法をグールドは「調性的技法の 革新的な使用法」と呼ぶ。  グールドが、一貫してシェーンベルクを形式主義とは対極的な音楽 家として捉えているところが印象に残った。自分にとっての音楽の内 実を追い求める過程で新しい形式を模索する態度は反形式主義だと言 うわけだ。この本を読んで、グールドのシェーンベルク演奏が聞きた くなり、CDを買ってきたが、感傷性と無縁の、音そのものの感情が 漲ったすばらしい演奏だった。
4月8日(日)  アメリカで結婚生活を送っている姉が、夫と娘さんを連れて遊びに 来たので、家族で食事会をする。場所は品川プリンスホテル。  食事の前にボーリングをやり(実に久々!)、それから姪っ子に香 水入れを買ってプレゼント。もう12歳なのでお洒落に興味が出始め ているんですね。ぼくが到着する前に、ぼくに買ってもらうための品 を熱心に吟味していたというから、なかなかかわいいものです。  食事はホテル内の日本橋という寿司屋で寿司会席。おいしかったけ れど、子供の舌にはちょっと難しかったかも。姉が日本食を結構食べ させているらしく、旦那さんも姪っ子も箸の使い方は上手でした。  姪は、各学科で優秀な成績を取ったり、発明のコンテストで賞を取 ったりと、いろいろな分野で才能を発揮しているらしい。アメリカで は、子供の発明コンテストのような催しでも、作品を説明する詳細な レポートの提出を求めるそうであり、学習に対する考え方の違いを感 じる。  時差ボケで姪が眠そうにしていたので、姉には姉の好きな大貫妙子 のベスト版のCDを、姉の旦那さんには皮製のメガネ入れをそれぞれ プレゼントし、記念撮影をしてお開き。  家族なのだから子供の頃は毎日そろって食事をしていたわけだが、 この歳になると年に一度そろうかどうかという感じになる。それぞれ が抱えている生活が違うので当たり前のことだが、改めて考えてみる とちょっと怖いような気もする。つまり、核家族というのは、一家離 散という状態を不可避的に呼び込むということだ。  昨夜は新宿ゴールデン街のFLLAPERでラテンのミニライブ。今回はあ まりお客さんがこなかったけれど、まあまあの盛り上がりで楽しかっ た。そろそろレパートリー増やしたいです。
4月1日(日)  ダ・ヴィンチの「受胎告知」を見に上野の国立博物館へ。開館して しばらくくらいのタイミングで到着したが、もう人がいっぱい並んで いて、絵を見るまで30分弱待ちました。並んでいる間、ちょっとミ ーハーな気分を楽しみましたが、ダ・ヴィンチのカリスマ性というの は画家の中では別格ですね。  「受胎告知」はダ・ヴィンチが20代前半の時の作品だが、間近で 見るとその完成度に驚かされる。と同時に、幾ら精緻に描いても描い ても、なお描ききれない何かを探求しているようなギラギラした視線 を感じてギクリとする。ダ・ヴィンチが描くところのマリアはとにか く非常に理知的で、母性という概念を知で捉えていく崇高さがあった。 ダ・ヴィンチにとって「受胎告知」というのは、神秘を理解するため の高次の理屈を得る場面だったのだろうか。線の先の先までとても細 かく、かつ鋭く、研ぎ澄まされていないところはない。触るとケガを してしまうような、ものすごく際どいものを見たという印象が残る。  絵画作品は「受胎告知」一点だけで、第二会場はダ・ヴィンチの作 画の仕方や考案した技術の説明の展示のみになっている。総じて唯物 主義というものの萌芽が詰まっている感じがした。人の心の営みをも 物理として捉える考え方は、今にも通じるものがあるように思える。 手稿は膨大にあるのに、興味本位で描いたスケッチなどはほとんどな い。画家というより、広い意味での科学の探求者だったのだろう。  4月の上野は桜が満開で、国立博物館近くのソメイヨシノの美しさ はもう絶品。やはり日本の桜というのはきれいですね。単に桜がきれ いということではなく、桜を愛でるという文化があるということ。こ れは大事にしたいものです。と言って、花見の宴席というのは実は余 り好きではないのですが。  帰りに渋谷に寄って、アレクサンドル・ペトロフ監督のアニメーシ ョン「春のめざめ」を見る。印象派の絵のような凝ったタッチのアー トアニメで、少年の純粋でしかも身勝手な恋愛を描く。16歳のお坊 ちゃまが、コケティッシュな女中と高慢な年上の貴婦人を同時に好き になるが、どちらの愛も失ってしまう。美しいだけでなく、心理の暗 い底の部分に潜行するような迫力があり、ちょっと怖いような作品だ った。同時上映の「岸辺のふたり」も切ない話で良かった。  日本はアニメ王国だが、こういう大人向けのアートアニメは意外と 少ない。かたやロシアや東欧では、じっくり鑑賞できる秀作がいっぱ いある。スタジオジブリには、日本にもこういうタイプのアニメーシ ョンを是非根付かせて欲しいものです。