2007年5月

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5月31日(木)
 志郎康さんから貸していただいた能瀬大助と玉野真一の映像作品集
のDVDを見た。

 能瀬大助の作品については、以前から志郎康さんから面白いという
お話をうかがっていたので見たいと見たい思っていたのだが、機会に
恵まれなかった。それだけに胸をワクワクさせながら見たのだが、期
待は裏切られなかった。
 「人のかたち」は、足元を見なければならないと自分に言い聞かせ
てみて、実際に足元を見てみたら、光と影しかなかった、それで光と
影を撮ることにした、というちょっとふざけた感じで始まる作品。し
かしその後は、驚いたことに本当に延々と物の影を撮りまくるのだ。
柵であったり、電柱であったり、通り過ぎる人であったり、の影の形。
それらの影の微細な凹凸を舐めるように撮影する。後半では、影の輪
郭をチョークでなぞり、時間の経過とともに影が元の位置からずれて
いく様を実感させる。まるで時間の肖像画のよう。
 「その先」は、髪の毛か糸くずかわからないが、細長い何かが風に
震える様子を撮影したもの。
 「日日日常」は、自給920円のアルバイトをしている作者が、5時間
半働いてようやく1分分のフィルムが買えることを喋った上で、「5時
間半で1分」のフィルムを使いひたすら自分の日常生活の様を撮影し
たもの。流しで水を垂れ流したり、足指でスタンドの光をつけたり消
したり、歯磨きしたり。やがて一円玉を部屋いっぱいに敷き詰めると
うパフォーマンスを行い、時間と金の関係をユーモラスに視覚化する。
 こうして簡単に作品の紹介をしてみると、何か遊び心に溢れた楽し
い作品のように感じられると思うが、ぼくは本当は、能瀬大助の作品
は神秘主義的な傾向も備えているのではないか、と思うのだ。日常世
界は、注視すると、およそ日常とは程遠い超自然的な表情を見せる。
それを丁寧に、指でなぞるように、執拗に追うことで、ある軽いトラ
ンスの感覚に辿り着く。それは宗教的と言ってもいいような不思議な
感覚だ。「物」がいかに予測不可能な動きをするものであるか、そし
て自分たちがいかにそうした予測不能な動きに囲まれて生活している
か。ユーモアを含んだ醒めた視線と、測り知れないものに対する、恐
れというか「酔い」の感覚の両方が、映像の隅々に生きているように
感じられた。

 玉野真一の作品は以前、イメージフォーラムで見て衝撃を受けたも
のばかりだったが、今回落ち着いてじっくりと鑑賞することができた。
 「よっちゃんロシア」は、坂道を転げに転げた男が、自転車に乗っ
た女と出会い、にらみ合い、手を打ち合って踊る、というもの。
 「のこりもの」は、昆虫や猫の観察から始まる。生きているものは
いつかは死骸になることを意識させられる。そして不意に、男が墓地
を訪れる映像が続く。男は「秋山家之墓」の前に来ると、いきなり「
行け行けアキヤマー」と甲子園の応援のような大声を出して叫び出す。
 「こうそく坊主」は、毛皮を着た坊主頭の男と投球の野球のユニフ
ォーム姿の男が、女にゴム紐を首にかけられてもだえるという作品。
 「純情スケコマShe」は、扇風機を抱えて恍惚となる男とベッド
で足をバタつかせる男の話。女が公園の噴水からバケツで水を汲み、
勢いよく足をバタつかせる男に浴びせかけるとまた水を汲みに駆け戻
る。やがて女はその場から立ち去り、なぜか踏み台昇降運動を始める。
扇風機を抱えた男は足をバタつかせる男のベッドを動かし、橇のよう
に森の斜面で走らせて、どぶ池に突っ込む。
 どれもただただナンセンスなお話なのであるが、このナンセンスさ
は周到に仕組まれたものであろう。玉野真一の目指しているものは、
生命感や物の実在感をいかに明晰に表現するかにあるように思える。
お話の設定を、思いつく限りナンセンスにすることによって、鑑賞者
の目を、生物や事物が「ただ、そこにあること」に釘付けにしようと
したのではないだろうか。物語の成立のために人や動物や青空が使わ
れることを拒否し、人や動物や青空があることから事後的に物語(の
ようなもの)が発生する(ように見える)ことを示そうとしたのだと
思う。異性に対するぎらぎらした性的欲望とか、命の尽きた生物を哀
れと思う心とか、汲み立ての水をきれいだと思う感じ方とか、人間が
育つ間に自然と身につけてきた諸々の感性が驚く程素直にさらけ出さ
れ、感性の描出という意味ではむしろ頑固なまでに保守的だ。人間の
感性の諸相や自然の無垢な在りようを、物語の助けなしに明晰に語る
ことを試みる点で、非常に理知的な映画だと感じたのだった。

 能瀬大助と玉野真一は対称的な作風だが、既存の物語の枠組みや思
わせぶりなモンタージュを拒否するところは共通している。そして撮
影対象が直接、映像を見ている者の心を侵犯してくるように構造上の
工夫を凝らすところも似ている。もちろん、表現の仕方は正反対と言
っていい程違うのであるが、根底には共通する問題意識があるように
思える。そうした意識がこの先どんな、物語らしからぬ物語を生んで
いくのか、興味が尽きないところだ。


5月27日(日)  新橋のヤマハでトランペットのレッスンを受けた後、イメージフォ ーラムで「ヤング・パースぺクティヴ2007」のIプログラムを見る。 今回はかなり面白かった。一番興味を惹かれたのは村岡由梨の「yuRi =paRadox〜眠りは覚醒である〜」。自身の出産経験を演劇的な方法で 象徴的に描いたもの。初めて持った子供への想い、分裂した自我との 和解(二つの自我は黒と白とで表される)、生活の苦労(お金をフラ イパンで炒めるなどちょっとコミカル)が、寓話的に表現される。少 しわかりづらいところもあるが、この作品を作らざるを得なかったと いう気迫に感銘を受ける。フィルムによる映像のアナログ感もこの作 品にふさわしいものに思えたし、BGMで使われた「幻想交響曲」他 のクラシック音楽の選択も良かった。飼っている猫の映像を素材とし た横田将士「いくえみの残像」、タイトル通りの動くパノラマ映像を 展開した卞在奎「ムービング・パノラマ」は映像としてのそれなりの 面白さを持っていた。石川聡子の『遅れたメフィスト、退屈な修羅』 は、砂浜で倒れていた着物姿の女が男(メフィスト?)と出会い、性 的欲望を遂げると同時に、女性としての性(さが)がメフィストのほ うに乗り移っていくという感じの展開の作品で、粗筋はわかりにくか ったが、ユニークな個性が感じられた。三間旭浩「1/2の蒸発」は、 手をモチーフにした作品で、巨大化した手が周りの風景を消滅させて いくといったような作品でSF的な不思議感が快い。  どの作品も、作者が関わっている現実がそれぞれの仕方で見えてく るのが良かった。イメージフォーラムらしいプログラムだと思った。  見終わって、鈴木志郎康さんから待望の玉野真一さん、能瀬大助さ んの映像作品のDVDを貸していただく。見るのは明日以降になって しまうがすごく楽しみだ。ご飯もご一緒させていただき、作品の感想 を交換する。  金曜日、高円寺の「楽や」でGYROというグループの演奏を聞く。 高岡大祐のチューバに沼直也のドラムス、辰巳光英のエレクトリック トランペットという変わった編成だったが、非常に刺激的だった。ト ランスとフリージャズを合わせたような音楽で、とにかくチューバの 醸し出すビートにグッとくる。空気の振動が音楽の躍動感としてダイ レクトに伝わってくる。ゴツゴツした繊細さ、とでも形容すればいい だろうか。ドラムの沼直也はとてもタイトで鋭角的なリズムを作り出 していたし、辰巳光英はエレクトリックトランペットの特性を最大限 に生かした、音色の変化が面白い演奏を聞かせる。狭い店だが、食べ 物もおいしかったし、また来たいものだ。  水曜に池袋万希で、土曜日に溝の口ノードでジャムセッション。 今週もどこかにジャムをやりにいこう。
5月20日(日)  渋谷のイメージフォーラムで「ヤング・パースぺクティヴ2007」を 見る。イメージフォーラム・フェスティバルの第一次審査通過作品を 中心にセレクトしたもの。今日見たものはEプログラムとFプログラ ムで、ドキュメンタリーはなく、ドラマ仕立ての作品、話の断片をイ メージ化したような作品が多かった。相沢克人の「光の帝国」を除く と、現実との関わりを避けているか、関わり方について明確な回答を 用意しないままに作られてしまっているように感じた。ゲーム的な発 想でいくのならいくで、キャラクターの存在の根拠を独自性をもって 描けばそれなりの現実性が浮かび上がってくるはずだと思うのだが、 そこが弱い。総じて作者がどういう現実に触れて何を受け渡したいか がよくわからない、という印象を受けてしまった。  丁度、東浩紀の新刊『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新 書)を読んでいる最中なので、仮想現実から出発するメタ物語的な手 法で描かれる「現実」の可能性については、こうした個人映画に期待 したいところだ。映画作家たちは、今の時代における物語の創り方に ついてもっと考えを深めていって欲しい。  会場で鈴木志郎康さんにお会いし、一緒にお茶を飲んだ。多摩美で 行われた映像作家・能瀬大助さんの講義が面白かったという話をうか がう。能瀬さんの作品については、志郎康さんからいろいろ話してい ただき、興味を持っているのだが、まだ見る機会に恵まれていない。 今度DVDをお貸ししてくださるというので、とても楽しみだ。  昨日は「現代詩の会」の合評会。北爪満喜、川口晴美さん、森ミキ エさん、長田典子さん、水嶋きょうこさん、薦田愛さん、山本洋介さ んが出席。山本さんの「グレープフルーツとすれちがう」という軽い タッチの作品がとりわけ印象に残った。  先週はクロコダイルでサルサのライブ。全部で20曲近くもやり、 クタクタになったが、盛り上がったし楽しんで演奏できた。リーダー であるTOTICO大塚の45歳の誕生日も祝うことができました。  6月3日に新宿二丁目の「BAR非常口」、10日に六本木の「コパカ バーナ」と、ライブの予定あり。
5月4日(金)  前日の夜、ビデオ屋で借りた映画「危険な関係」を見てジャンヌ・ モローの目つきの険しさに魅了されていたので起きたのは昼過ぎ。 夕方から六本木の新国立美術館に足を運び、画家の松宮純夫さんか ら招待状をいただいた国画展を一回りする。  その後、日比谷の東京国際フォーラムでバルトークの「2台のピ アノと打楽器のためのソナタ」とストラヴィンスキーの「結婚」を 聞く。この演奏会は「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂 の日」音楽祭」という仰々しい名前の催しの一環で民族音楽とクラ シックの接点に焦点を当てたものらしい(実は、よく理解していな くてスミマセン)。   バルトークは実演で聞くのは初めて。贅肉のない、音楽の筋肉と 骨格を見せつけられるような、徹底した清潔感に魅せられる。全体 に、もっと遊びやユーモアがあってもいいかな、と思うところがあ ったが、細部まで磨きぬかれたいい演奏だった。ストラヴィンスキ ーは二回目だが、圧倒的な音色の変化の妙と強烈なビート感に打た れる。この曲を聴いたディアギレフは涙を流したそうだが、実はぼ くも不覚にももう少しで泣いてしまうところだった。感傷性とは無 縁の音楽なのに、ジェームズ・ブラウンやのようなエモーショナル な力が漲っている。特にソプラノのキャロライン・サンプソンが力 強い歌唱ですばらしかった。こういうプログラムで、広い会場がか なり埋まっていたのには驚き。格安(3000円)だったせいもあ るかもしれないが、20世紀のいわゆる現代音楽がそろそろ普通の 音楽として認知され始めたのかもしれない。 出演は下記の通り。 キャロライン・サンプソン(ソプラノ) スーザン・パリー(アルト) フセヴォロド・グリヴノフ(テノール) デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(バス) マルクス・ベルハイム(ピアノ) フリーデリーケ・ハウク(ピアノ) ユルゲン・クルーゼ(ピアノ) ベンヤミン・コブラー(ピアノ) カペラ・アムステルダム ムジーク・ファブリーク ダニエル・ロイス(指揮)