2007年6月

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6月25日(月)
 オランダのハープシコード奏者、グスタフ・レオンハルトのリサイ
タルに行く(トッパンホール)。
 レオンハルトはバロック音楽以前の古楽の草分け的存在として知ら
れる人だ。彼以前にも古楽の演奏家たちはいたが、レオンハルトのよ
うに当時の奏法を詳しく調べて、音楽学の知識を全面的に演奏に取り
入れた人は少なかった。ぼくは中学生の時に、朝のFM放送「バロッ
ク音楽の楽しみ」(皆川辰夫監修)を目覚まし時計代わりに聞いてい
たが、その時しばしば登場した名前だった。モダン楽器とは全く異な
る、典雅で溌剌とした演奏ぶりに魅了されていたことを思い出す。
 現れたレオンハルトは非常に背が高く、まるで学者のような風貌だ
った。使われたハープシコードは2台で、前半と後半で一台ずつ使い
わけられていた。全く違う音色がするのが面白い。ピアノよりもリュ
ートに近い豊かな響きで、弦楽器の一種であるかのように感じられた。
この楽器、調律も奏者自身が行うんですね。恐らく調律も演奏のうち
なのだろう。
 ヨーロッパ各国の作曲家の余り知られていない小品が曲目に選ばれ
ていたが、どれもすばらしい佳曲だった。レオンハルトはもう80歳
近い年齢である。さすがに技巧はやや衰えが感じられ、ミスタッチも
あったが、自由闊達な音楽づくりはさすがだった。装飾音のつけ方と
かルバートの仕方とか、実に色気があってチャーミング。クラシック
というよりもポピュラー音楽に近いような、即興性の豊かな演奏ぶり
だった。全プログラムを夢見心地で楽しむことができた。
 彼は、音楽学者として当時の演奏スタイルの研究に大きな功績があ
るけれど、「自分たちの演奏をバロック音楽演奏の標準とは考えない
でほしい」という意見を表明している。バロック時代の演奏は演奏家
の個性に多分に委ねられていたし、そもそも演奏というものは表現で
ある限り、個性的である他ないものなのだろう。こういう反権威主義
的な考えの持ち主が指導者としての尊敬を集めている古楽の世界はう
らやましい。

 帰りに友人の守屋さん、小島さんと一緒に沖縄料理屋でご飯を食べ
る。沖縄料理は久しぶりだったがいいもんですね。ゴーヤの苦い味は
かなりの好みです。


6月23日(土)  幻妖ブックブログの運営を一緒に行っているライター&カメラマン のタカザワカンジさんの写真展を見る。ゴールデン街のアガジベベー という飲み屋の2階でのこじんまりとした開催だが、ゆったり落ち着 いて楽しむことができた。ここのマスターは自ら写真を撮る人で、2 階は展示のために写真家に無料で貸しているという。お客さんを呼ん できてもらってビールでも頼んでくれれば店の売上げになるからそれ でよい、というおおらかな姿勢のようだ。  展示された作品は、タカワザさんが90年代にベトナムをはじめと する東南アジアを旅した時に撮った写真の中から選んだものだ。国別 や日時順などは気にせずに、時間がたって曖昧な記憶の塊となった東 南アジアの姿を素直に見せるというコンセプトのようである。会場で タカザワさんと会い、ビールを飲みながら話を聞いたが、90年代の この頃、彼は写真を本格的にやることは考えていなくて、個人的に撮 りたいものを旅行者の目で撮っていただけなのだという。うまく撮ろ うとか、斬新なアイディアでいこうとか、一切考えないで撮っていた ということだ。その無心さが作品の中にとてもよく生きていると思う。 ドイモイ運動が始まったか始まらないかの頃のベトナムは、本当に貧 しくて、子供たちは裸同然だし、家は高床式の掘っ立て小屋だ。しか し、誰もが時間だけはたっぷり持っている。その幸福感を、タカザワ さんはキラキラした好奇心をもってしっかり記録している。電車が日 に何回も通らないので線路でジーパンを広げて干している光景や、舟 遊びをしている人用に酒やつまみを積んでのんびり販売する小船とか、 ああいいなあというつぶやきが出そうになる。東南アジアといっても 最近はそれなりに都市化が進んでいて、こうした光景はだんだん消え 去っていっているらしいから、将来は資料的にも貴重な作品になるの ではないだろうか。  こういう作品を鑑賞していると、野心というものが表現にとって良 いものなのか悪いものなのか、わからなくなってきますね。表現を深 めるためには技法やコンセプトを探求する必要があるけれど、それが 「自分は写真家である」という肥大した自意識を生み、対象との新鮮 な出会いを妨げてしまう。  ツーリストとしての好奇心と礼儀正しさが素直に表れたタカザワさ んの作品に接し、表現と野心の関係について考えさせられた。
6月17日(日)  イメージフォーラムの「ヤングパースペクティブ2007」のGプ ログラムとHプログラムを見る。  Gプログラムは「映像のブリコラージュ」と題されたもので、映像 の断片を寄り集めて意外な意味の生成を意図する作品が集められてい る。鈴木志郎康さんに勧められた能瀬大助の「He may solve the problem by using his logic」は、英会話ソフトのネイティブスピー カーの発音に従って、英語の一文を繰り返し発音する、というもの。 ネイティブの発音との違いが鮮明に出る。「正しい発音」と「ぎこち ない発音」が比較されているのでなく、ネイティブと非ネイティブ、 二人の人間が育ってきた間に身につけてきた歴史性の違いが、発音の 形の違いとして表れているわけだ。人間を、まるで地層を調べるかの ように観察している、というふうに感じた。普段は意識されないが、 他の要素に還元しようのない「その人」の核心の部分が曝け出されて いて面白かった。但し、ぼくが見た他の能瀬大助の作品のようにイン トロダクションがなく、つまり、説明が全くないまま本題に入ってし まうので、わかりにくい人もいたのではないかとも思った。実験者と 実験の関係を明示したほうが、主体の立ち位置が明確になってよりス リリングになったのではないかということだ。いずれにせよ、発音と いうものをこうした視点で捉えた作品は見たことがなかったので新鮮 な気分になった。  他では、何気ない日常の映像の上にいたずら描きしたような小野恵 の『パンタロンに届かない』が面白かった。  Hプログラムは「物語を曲げる」と題されていて、ひねりの効いた 物語映画を集めたプログラム。水野愛子の「COSMOS」「MOTHER」は描 割りの絵の中で進められていくような記号的な作品だが、決して無機 的でなく、人と人との出会いとすれ違いの妙を捉える構成になってい た。河内洋の「グリム」は、塔に閉じ込められていたお姫様が飛び降 りてぐしゃぐしゃになって死ぬという暗いメルヘンの語りで始まるが、 実はそれは孤独な男のつらい心の中を暗示するもので、後半は男のあ てどもない行動が映し出される。行き場のない心の様子がよく表れて いると思った。総じて、メタ物語が当たり前の物語として受け取られ ており(少しもハイブロウな実験性を示すものとして提示されること がなく)、メタ物語を土台に素朴な感情吐露がベタな形でなされてい る、という印象を持った。  毎度のことながら、ヤングパースペクティブで上映される作品はイ メージフォーラムフェスティバルの受賞作よりずっと面白いですね。
6月16日(土)  渋谷の松涛美術館に「大辻清司の写真 出会いとコラボレーション」 展を見に行く。この展覧会は、大辻清司の作品というより「活動」が どんなものであったかを紹介することに焦点をあてていて、とても興 味深いものだった。彼の写真は、シュールリアリズムをはじめとする 前衛美術との出会いの衝撃から始まっている。多くの芸術家たちと実 によく会い、彼らの作品をテーマにした写真を数多く撮り(作品への 理解の深さがよく表れている)、一緒に仕事をし、批評も書く。そし て、芸術作品にインスピレーションを得て芸術作品を作る方法から、 だんだんと視線が日常の風景に向っていって、街の光景をやわらかく 撮るようになっていく。  大辻清司の写真は、対象を既成概念からスパッと切り離して即物的 に撮影する。その裏には、言葉でカメラと被写体との関係を考え尽く した跡が感じられる。物と言葉のデッドヒートが大辻の写真の魅力で あり、鑑賞者にもともに考えることを要請してくるようなところがあ る。そこが、独特の緊張感を生んでいる。大辻は、多彩で濃厚な交友 関係の中で新しい表現の概念を学び、自分の創作に絶えず生かしてい たのだろう。彼のように、いろいろな分野の表現者との交流を楽しみ 創作の糧とするような人は、今は少ない。現在、表現をやっている人 たちは、自分のことを喋ったらそれで終わりという感じだ。この企画 展を見て刺激される人の多いことを望みたい。  松涛美術館を出たあと、外苑前の「ときの忘れもの」で井村一巴の セルフポートレート展を見る。モノクロの写真に細工を施し、天使の 羽のような模様を自分の背中に描きいれたりしている。自分の女性と しての成長を確かめ、自分で自分を抱き締める愛の行為を写真にして 残した、という印象を受けた。生真面目な顔の表情から、気持ちの純 粋さがうかがえる。ただ、憎悪とか退屈とか、もっと様々な感情を表 現して欲しかった気もする。
6月10日(日) 西荻窪のこけし屋(大きな洋菓子店のホール)で催された「西荻ての ひら怪談」に行ってきた。ぼくが運営に力を尽くしてきた「ビーケー ワン怪談大賞」が『てのひら怪談』という本になり、それがまた多く の人の目に触れて、「800字で書く怪談」が注目された。そして、 北尾トロさんらが主宰する西荻ブックマークのイベントのテーマにも 取り上げられた、ということ。いやはや、怪談大賞を始めた時には思 いもよらなかった展開になり、発案者&運営者としては嬉しい限り。  東雅夫さん、歌人の穂村弘さん、作家の加門七海さん、福澤徹三さ んに加え、客席から引っ張り出された京極夏彦さん、平山夢明さんを 迎え、現代における「怪談」の意味と意義が熱く語られた。「怪談」 の概念が急速に広がっているということ、こうした800字の文学作 品においてはプロとアマの差がないこと、などが話題になっていた。 西荻窪をテーマに公募された怪談作品が朗読され(怪談というより幻 想掌編・散文詩という感じ)、新しい「怪談文化」の息吹きを感じる。 会場は満員だったし、本もよく売れていたようだった。  会が終ったあと、関係者で打ち上げ。ぼくはこのあとサルサのライ ブが控えていたので途中で失礼させていただいたが、作家の方や出版 社の方が大勢みえていて、本の話で盛り上がり、楽しかった。  さて、7時半すぎに打ち上げの席を抜け出してから六本木のコパカ バーナでライブ。日曜の21時半スタートのライブということで、入 りはもう一つという感じだったが、お客さんがダンスレッスンに通っ ている生徒さんたちが多かったせいもあって、みんなノリノリで踊っ ていただけました。演奏者としては、お客さんが踊ってくれるのが一 番嬉しいですね。  9日は、北松戸のCUBAという店でリベラシオンというバンドの 演奏を、こちらが客として聞きにいったので、週末はまたもサルサ漬 けでした。リベラシオンの演奏は良かったし、店の雰囲気も最高でし た。ウチのバンドも9月末に出演します。
6月3日(日)  新宿二丁目のバー「非常口」でサルサのライブ。といっても単独で はなく、ゴールデン街から二丁目までの界隈の人たちが企画した催し の中での演奏だ。  この辺りの人たちは、人懐っこく、優しく、ちょっといい加減なの だが、そういう性格がよく表れた催しになった。ポールダンスのポー ル舞さん(一緒に出るのは二度目でとても気さくなお姉さんだ)、セ クシー系の創作ダンス集団紫ベビードールズ、ロックのジェニミーズ、 最後に我がロス・ボラーチョス。それぞれに個性的なパフォーマンス だったが、特に紫ベビードールズのダンスが寸劇のようなコミカルな 構成で楽しかった。ラス・ヴェガスのダンスショーで一位になったそ うだ。セクシーダンスだからすぐ裸になっちゃうのだが、お尻を叩き 合ったりの大騒ぎが、確かにかわいいし、おかしいしで、とてもウケ ていた。ボラーチョスの演奏の時には、サンバ出身のノリコさんとい う女の子が背中に孔雀の羽をつけて踊り、場を盛り上げてくれた。サ ンバとサルサはリズムが全く違うのだが、まあこれはこれでいい。こ ういういい加減が許されるところがこの催しの良いところだ。  晩飯は近くのタイ居酒屋でとったが、安くてうまかった。  統一感のないぐだぐだな進行のパーティだったが、くつろげていい ですね。しかし、ここに集まってきていた人たち、昼間は何をやって るんだろう。