2007年8月

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8月27日(月)
 盆明けから仕事も遊びも忙しくて帰るとぐったりの毎日。

 仕事の方では、ビーケーワン怪談大賞選考会の記事のアップやら受賞者へ
の連絡やらで戦争のような毎日。選考会では、加門七海さん、福澤徹三さん、
東雅夫さんが、膨大な投稿作品を細かくコメントしていて読み応えがありま
す。ボランティア同然の御礼しか差し上げられないのに、粘りに粘った選考
をしていただいていた。この選者の情熱が、投稿者の創作意欲に火をつける
んですね。
 土曜日には、東雅夫さん、作家の高原英理さんのトークショーを見に青山
ブックセンターに足を運んだ。参加者は多くはなかったが、内容の濃いお話
が聞けた。高原氏の新作『神野悪五郎只今退散仕る』は、稲生平太郎の妖怪
譚を下敷きにした現代もののファンタジーだが、この小説の刊行を記念して
「イノモケ文学賞」なる800字の稲生関連の怪談をネットで募集したところ、
短い間に66編もの作品が集まった。その全ての作品が当日プリントで配布さ
れ、その場で受賞作が決められた。ネットを活用したスピーディーな事の運
びが面白い。作品も生き生きとしたものばかりだった。ビーケーワン怪談大
賞の投稿者の方も何人か来ていて、挨拶できたのが良かった。

 ジャズのセッションにも2回行った(池袋の万希と用賀のキンのツボ)。
土曜のトークショーのあとは、新宿ゴールデン街のフラッパーでミニライブ。
打ち合わせなしの演奏なので、ちょっとグダグダな感じになってしまったが
その分パワフルに吹きまくってきました。お店狭いのにうるさくなかったか
な? 
 そうそう、18日は溝口ジャズ同盟の有志と多摩川の花火に行ってきまし
た。ぼくは混雑がいやなので、普段花火大会に行くことはまずないのだけれ
ど、気のあう人とビールを飲みながら見るのはやっぱり楽しいですね。花火
大会は10年ぶりくらい。ピアノの千葉さんと彼女のお友達のメグさんがき
れいな浴衣を着てきて、ああ日本の女の子はやっぱり浴衣が似合うもんだな
あ、などと人並みのことを感じました。この、「人並みのことを思う」とい
うのが、ぼくにはなかなかないことで、偏屈さを矯正するためにも、今後少
しは人並みのことを考える癖をつけていこうかと思いつつ帰りの電車に乗っ
たという次第です。


8月17日(金)  関口涼子詩集『グラナダ詩篇』(書肆山田)を読む。  前作の『二つの市場、ふたたび』『熱帯植物園』につながる内容の詩集で、 散文体の作品ながら、視覚的な効果に十分気を配った造りになっている。  作品は三部に分かれている。一部は「蒸気の観察」と題され、時刻ごとの 外気の状態(気温や湿度など)について書かれている。二部は「グラナダ詩 篇」と題され、グラナダの街の様子について書かれている。三部は「Ada gio ma non troppo」と題され、「(詩人の)ペソアが婚 約者に宛てた手紙を下敷きに」しているという、愛の告白と街路の観察を綴 った作品になっている。  地理と気象と自意識が渾然一体となった、「愛の状態」とでもいうべきも のを忠実に書き起こす点において、三つの部分は見事に呼応しあっている。 ある特定のものに対して愛を表明するのでなく、存在そのものに対しての愛 の表明。だから、文意の上では殊更に愛を強調しない(第三部でも、ペソア の愛の告白は引用という形で慎ましく行われる)。そっけないとさえ言える ような淡々とした文体で空気の状態を精密に書き記しながら、実は存在その ものへの賛歌をひたすら紡ぎ出している詩であって、ここに、「信仰」とい うものの本質的な姿が隠されているように思える。  お断りしておくが、ぼくはここで「信仰」という言葉を比喩として使って いるだけで、この詩集は内容的には何ら宗教的なものではないし、「神」と いった言葉も一言も出てこない。  しかし、全能者から贈与された世界を、功利性を排して喜びをもって迎え ることが信仰の本質であるとしたら、この詩集ではそうした意思の表明がき っぱりとした態度でなされているように思える。つまり、世界との触れあい を、純粋な快感として、言葉の皮膚感覚を通して官能的に受け止めた記録を、 全能者に対し感謝として捧げている側面があるのではないかということだ。  但し、ここにきて一種の煮詰まり感を感じてしまったのも事実で、作者が 「テキストを書くこと」についての自意識の記述に拘る余り、書かれる対象 が抽象化されきってしまって、その個別性が明確に描かれていないようにも 思えてしまった。つまり、個々の事象が作者の「書くこと」への意識に収斂 されてしまうので、事象一つ一つの「声」が聞こえにくくなってしまってい るのではないかということ。結果、読者はひたすら詩人の考えを拝聴すると いう態度を取らざるを得なくなり、詩の言葉とのコミュニケーションが平板 化されてしまった。作者はその危険を薄々感じていたに違いなく、だからこ そ第三部にペソアの愛の物語を持ってきたのだろうが、それも余りに物語化 ・単純化され、文学の外にある肉体的な猥雑さ・複雑さが消えてしまってい るように思える。  猥雑なものの中にも、醜や悪の中にも、「神の声」は隠されている。それ らを注意深く聴き取って、「個々」の存在である読者に伝えることも、詩人 の役目なんじゃないかな、と、ちょっときつい注文だがすばらしい詩集なだ けに、つい思ってしまったのだった。
8月13日(月)  もろもろ雑用をこなし、また自宅でできる会社の仕事を片付けた後、渋谷の BUNKAMURAミュージアムでルドン展を見る。  版画が多く、ルドンの「黒」の描出に焦点をあてた企画になっていた。深々 とした闇の豊かさに魅入られて、心の闇も一つのかけがえのない豊かさとして 承認する。そのきっぱりとした態度に、逆にある種の明るさを感じた。  「聖アントワーヌの誘惑」や「悪の華」などの文学を下敷きにした作品もも ちろん面白かったが、今までみたことのなかった樹木の絵に今回はとりわけ惹 かれた。樹の複雑な生のありようをじっくりと味わいながら描いているという ふうに思われた。表には現れにくい存在の豊かさを引き出すという点で、闇を 描いた幻想的な絵と樹木の絵は共通している。ドビュッシーの音楽は、印象派 的というよりもルドン的なのかもしれない。  この豊かな闇が、会場の最期のパートに飾られた、晩年のまばゆいような花 の絵に昇華していくわけで、ルドンという画家の一貫性と変化を同時に味わう ことができ、満足したのだった。
8月12日(日)  ジャズを愛好する者が集った「溝口ジャズ同盟」のメンバーで、埼玉のスタ ジオに足を運び、一泊二日の合宿を行った。  「溝口ジャズ同盟」は、溝口界隈に住むプロ・アマのジャズミュージシャン が交流するコミュニティで、定期的にセッションの会を催している。合宿は今 回で2回目だという。  幹事の方々が実にテキパキと仕事をこなしていて、演奏、花火大会、バーベ キュー、温泉と、短い間ながら盛りだくさんのメニューをこなしました。いや あ、花火はホントに久しぶりでしたね。驚く程たくさんの数があったのでびっ くりしましたが、山の中で、回りを気にする必要のない環境だった遠慮なくバ ンバンやって楽しみました。バーベキューはこれも驚く程の量の肉が用意され ていて、食べても食べても減りませんでした。でもおいしかったです。  演奏は、グループ分けをして対抗戦形式でやるという凝り様。課題曲は何と ウェイン・ショーターの「FOOTPRINTS」、ぼくのグループの自由曲はジョー・ ザビヌルの難曲「YOUNG AND FINE」でした。前者はともかく、キメの多い後者 を一時間の練習で仕上げるのは大変でしたが、まあ、何とかやれたかな。ギタ ーの大江さんが熱心に仕切ってくれてありがたかった。  若い元気な人たちと接するのは楽しいものですね。
8月9日(木)  ビーケーワン怪談大賞の選考会の立会いのため銀座のルノアールへ。もう5 回目になるが、雑誌などで取り上げられたせいか、今年は昨年の2倍以上の作 品が集まった。注目されていることは喜ばしいことだが、審査はそれだけ大変 になるので不安でもあった。  選考委員は作家の加門七海氏、福澤徹三氏、評論家の東雅夫氏で、600編 を越える投稿数にもかかわらず、全作品を実によく読みこんでいらっしゃった のには驚く他ない。そして受賞作は意外とすんなりと決まった。  今年は、いわゆる体験談風の怪談が例年より少なく、幻想掌編と呼んだほう がいいような、凝った文体の作りこんだ作品が多かった。レベルの高さは昨年 以上で、質量ともにすごい年になったという印象。  投稿者同士が互いの作品をよく読みあっているようで、このモチベーション を維持できれば、新しい怪談文学の文化を創ることができそうだ。  選考会終了のあとは、打ち上げでホラー・怪談文学を語り合い、更にそのあ と久しぶりにカラオケにも行きました。  発表時の準備やらでこれから忙しくなりますが、受賞作が決まってまずはひ と安心。
8月5日(日)  詩集を数冊読む。簡単に感想を書くと  やまもとあつこ『まじめなひび』(空とぶキリン社)  感覚や感情の枝道が細いところまでクッキリと描かれていてとても新鮮。気 取りがないせいで、興味を感じたものに筆が直接届いている感じがする。現代 詩においては、作者(詩人)としての自意識が、主体と対象との間を邪魔する ことが多いけれど、やまもとあつこの詩にはそれがない。赤ちゃんが、興味を 持ったものを触ったり口に入れようとしたりするのに似た態度で、対象に体で 接している、とでも言ったらよいだろうか。  今井義行『ライフ』(思潮社)  こちらは一転して自意識を描いた詩集だが、自意識の在り方について自省し ているところに特徴がある。前の詩集より題材のとり方が広くなり、自己陶酔 的な部分が減って、作者と周囲の関係がよく見えるようになってきた。作者は 神経を病んでいてつらい状況にあることが描かれているが、それを素直に認め て書くことで、詩自体の質は明るくなったと思う。思考を深めていかなければ ならないところで、抒情に逃げているように感じられる箇所があるのが残念な 気がする。  根本明『未明、観覧車が』(七月堂)  苦みばしった言葉の鬱蒼とした佇まいが、逆にある快さをもたらしてくれる。 挫折やら無力感やら欲望やら希望やらが渾然一体となった、何とも形容しがた い感情の色感が、うまく言葉に映し出されていると思った。ところどころに出 てくる、現代詩風の思わせぶりな言い回しはやめにしたほうがいいのではない かと思うが、中年に達した人間が人生を振り返る時の、軽いショックのような 感情の動きが鋭くつかまえられている。  野村尚志個人誌『季刊 凛 11号』 2編収録されているが、特に「引越し」という詩に感動した。母親の最期を夢 で見たという内容で、「夢のなかでの言葉は生きている人には届かないが/死 んだ人には届くのだ」という危うい断定の切実さに、思わずはっとさせられた。 時空の壁を越える不思議な感覚が、日常生活の中にごく自然に位置づけられて いると感じた。  詩を読むとやはり刺激を受けますね。この刺激を、これから書く詩に生かし ていきたいと思います。