2008年3月

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3月23日(日)
 新橋のヤマハのトランペット教室へ。コルトレーンの難曲「COUNTD
OWN」が課題曲でへろへろになりながら何とか吹く。原先生から、フレー
ズが小奇麗にまとまりすぎているのでもっとグルーヴ感を大事にするように、
とのご指摘を受け、猛省。ソロを吹いているとどうしてもフレーズの構築に
頭がいっぱいになってしまう。ソロも合奏の一つのパートなんだということ
を自分に言い聞かせながら練習に臨みたいと思う。

 教室を出たあと急いで自由が丘の大塚文庫へ。同人誌誌「歴呈」の朗読会
があり、知人が参加しているので足を運んだというわけ。ぼくが着いた頃に
丁度北爪満喜さんの朗読が始まった。5時の閉会時までワインを飲みながら
たくさんの詩人の朗読を聞いた。ご高齢の那珂太郎さんの姿もあった。
 全体としては、朗読会というよりは懇親会という雰囲気で、朗読は達者な
人もぼそぼそ読みの人もいた。現代詩の朗読に関していつも思うことは、詩
の意味内容がよく聞き取れないということで、それは残念ながらこの日も変
わらなかった。現代詩の多くは黙読を前提として書かれている。一度聞いた
だけで客に感動を与えなければならない朗読にはもともと不向きなのである。
ひと工夫加える必要が(そして発声の練習も)必要ではないかと改めて思っ
てしまった。中では、川口晴美さんのドラマ風の朗読がスリリングで楽しめ
た。川口さんの詩は、内容と同じくらい発話という行為自体に重きが置かれ
ている。その詩の質が朗読パフォーマンスにマッチしたのであろう。
 大塚文庫の建物は、古い屋敷の構造をリニューアルしたようでとても興味
深かった。

 22日はイメージフォーラムの卒展のCプロとEプロを見た。Cプロでは
片岡優子の「片岡優子の作り方」が面白かった。30代半ばで少々アルコー
ル依存(?)の女性が、自分を見つめ直そうとするが何も見つからないとい
う内容。「牛乳は牛の血液だから日の光に透かすと赤く見える」という父親
の戯言を実際に実行してみるシーンがあるが、牛乳を日に透かすとそれは赤
ワインに変わり、主人公を酩酊させる。ばかばかしくもあり切なくもあり、
やりきれない気持ちにさせられた。Eプロはアニメーション作品の上映で、
それなりに楽しいアイディアがあったが、概して中身が希薄だった。絵の動
きの中に、思考の動きを感じさせて欲しかった。

 20日は詩の合評会。毛利珠江さんの散文体の2編の詩が特に面白かった。
その1編は、中東のある地域で、タクシーで観光地に向うが途中災害があっ
て引き返すという内容。五感を駆使した描写に迫力を感じた。
  
 そのあと、ジャムセッション仲間と阿佐ヶ谷の山猫軒で食事。アニメーシ
ョン専用映画館に併設されているだけあって、料理も建物もメルヘンタッチ
でいい。フランス料理をベースにした創作料理だが、素材の味をとてもよく
生かしていると思う。アスパラガスの揚げ物が特にうまかったが、実は風邪
気味だったので十分風味が味わえず残念。とにかく、腹を割って濃い話がた
くさんできたのが収穫だった。人と会って話をするというのは大事ですね。


3月16日(日)  新国立劇場でヴェルディの「アイーダ」を聞く。  「オペラのデパート」と呼ばれているくらい派手な作品だからゴージャス な舞台を期待したが、ビジュアル的に期待をはるかに上回るものだった。装 置も衣装も手間とお金を惜しまず作られたものであることが遠目でも明らか。 神殿とかファラオの衣装もすごいが、それより端役の靴の一足一足、アクセ サリーの一個一個にまで細心の注意が払われているのにはびっくり。ぼくは オペラは聞ければよいと常々思っていて、オペラグラスを邪魔もの扱いして いたのだが、今回だけは持ってくれば良かった、と心底思った。演出・美術・ 衣裳は有名なフランコ・ゼッフィレッリが担当したのだが、とにかく細かい ところ程凝っている。こんなのは初めてだ。まばたきするのももったいない ような気になってくる。例の凱旋のシーンでは本物のウマも登場したし、東 京シティ・バレエ団によるバレエも堪能できた。アイーダ・トランペットの 配置もよく計算されていて見事だった。  歌手では、ラダメス役のマルコ・ベルティがよく伸びる力強い声で圧倒さ れた。アイーダのノルマ・ファンティーニもすばらしかったが、お祭りオペ ラだからもっとドラマティックに歌っても良かったのではないかという気も した。アムネリスはマリアンナ・タラソワが歌っており、嫉妬の苦しみを十 二分に表現して、存在感が際立っていた。東京交響楽団の演奏は、ノーミス だったが、オペラ特有のうねる感じが余りなくて少しがっかりした。多少、 音程がはずれてもよいから、歌手と一緒に楽器で歌いこんで欲しいなと感じ させられた。  とにかく、こんな豪勢なものは滅多に鑑賞できないだろう。  15日にゴールデン街フラッパーでラテンのミニライブをやり、翌日は築 地のキューバン・カフェで知人のバンド、コンフント・ヒバロのライブを聞 きにいった。客は少なかったが、今まで聞いたヒバロの演奏の中では今回が 一番いい。ここのところ、週末はサルサに浸っている。まあ、こちらは素人 のやっている音楽だが、これはこれで楽しいものだ。  詩誌「スーハ!3号」を読む。  野木京子さんの「どの人の下にも」は、足元の沼を覗き込み、記憶の深み へ降りていくという詩。メルヘンタッチの言葉使いが美しく、ノスタルジッ クな気分が心地よい。シチュエイションの設定がやや甘いのが難点で、ここ をすっきりと読み手にわからせれば、すごく良い詩になるだろうと思った。 佐藤恵さんの「透影まどか」は詩人の福井圭子を追悼した作品。注意深く選 ばれた言葉を使って死者との最後の対面を果たす。とても美しい詩だが、福 井圭子を清らかな存在として単純に祭り上げすぎている気もする。追悼の詩 こそ、ある種のユーモアの要素が必要なのではないだろうか。追悼すべきは、 天使ではなく、笑ったり、泣いたり、時には間違いも犯した人間なのだから。
3月14日(金)  暖かくなってきましたね。一年で一番好きな陽気の季節です。  3月9日に藤沢のインタープレイでサルサのライブ。ここでの演奏は2回目 だが、たくさん人が入ってすごく盛り上がった。ギャラもいっぱいもらえまし た。  最近思うのは、都心からちょっとはずれたところの方がライブは盛り上がる、 ということ。その土地その土地の、ラテンが好きな人が「必ず」集まってくる からだ。こういう場所は、ラテン音楽愛好者のちょっとした教育機関としても 機能してるんでしょうね。休憩時間にダンスのフリを練習して、演奏が始まる とリズムに合わせてそれを披露してくれたりするからびっくり。懐かしい顔に も会えたし、演奏前に食べた台湾料理もおいしかった。  藤沢サイコー。またやりたいです。  送られてきた詩誌を幾つか読む。  「あすら11号」の野村尚志「海まで」は、トンボの羽根を海に流そうと思 い立ち、海辺まで行く途中に浮かんだ想念を記述していくもの。「何千もの赤 トンボが海を渡っていく姿」の想像が雄大で美しい。どうでもよいことを書き 綴っていくが、書き留めることによって、どうでもよいことが特別のことに変 質していく様がきちんと描かれている。  「フットスタンプ15号」の田辺武「ぷそいど」は、会社の保健室から心の 病気の件で問い合わせを受け、そのやりとりを作品にしたもの。噛み合わない 対話の中で、話者の病状(まだ軽いがやはり多少問題がある)が明らかにされ てくる。ユーモアがあって楽しめたが、サービス過剰がやや鼻につくところも あった。もっと淡々と書いた方が、話者の心の訴えがクリアに聞こえたのでは ないかと思った。  サービス過剰ということは、白鳥信也さんの「ロビーがさみしい」「やぶか らぼうに」にもやや感じた。どちらも楽しい詩なのだが、詩人の演出のために かえって、話者の心の内側が見えにくくなっていると感じさせられた。  北爪満喜さんの「SU I CA 移り映るもの」「響き」は、繊細な言葉 の運びの妙が際立つ。「SU I CA」は移動によって感覚が現実から離れ て浮遊していく様子を描き、「響き」では夢の出来事と現実との境界のうつろ いを描いている。北爪さん特有の濃密な比喩に心を打たれる。ただ、心の痛み を表現しようとする余り、ところどころ非常に直接的で説明的な書き方がされ ており、話者の感情のトーンの微妙さ・繊細さがやや損なわれているようにも 思えた。  詩というのは、確かに心の訴えであるのだが、あくまで作品の内側にいる話 者の状態に即して描かないと、作者にそのつもりがなくても過剰演出になって しまうと思う。結果、作品が訴えようとしている微妙な何かを作者その人が邪 魔してしまう結果になる。ぼく自身も反省することが多いのだが、詩の作者と してでなく、作中の人物として感じ、行動するのはすごく難しい。