2008年4月

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4月30日(水)
 仕事の後、一時帰国されている詩人の関口涼子さんを囲む会に足を運ぶ。場
所は日比谷の「炉端」。ぼくが駆けつけたのは9時を回ってからだが、鈴木志
郎康さんやパク・キョンミさん、高橋睦郎さんらがいらしていた。関口さんは
今年は翻訳に力を入れるという。昨年刊行された小説『ラヴェル』や今後の翻
訳の仕事についてうかがった。詩の朗読もあったようだが、残念ながら聞き逃
してしまった。後半は、書肆山田の鈴木一民さんの独演会(?)。
 たくさんの料理や酒が出て、皆おいしかったがその量に驚かされた。
 関口さん、お仕事頑張って下さい。


4月29日(火)  鈴木志郎康さんの映画「極私的にコアの花たち」を見に、新宿のパークタワ ーホールへ。イメージフォ−ラムフェスティバルが始まると、今年もGWが来 たな、という気がしますね。  『極私的にコアの花たち』は、庭の花を一年にわたって撮影したもの。草花 の好きな撮影者にとって、庭は自分の「コア」の場所である。花たちは芽吹い て、開いて、枯れていく。そして、庭の「主役」たちが季節の移り変わりとと もに変わっていく。ところどころ撮影者の日常も交えて、花々の映像が延々5 0分繰り広げられるのである。  こんな映画を、志郎康さんの他の誰が思いつくだろう。ある意味、途轍もな く退屈な映画である。花が映っているだけなのだから。映画にドラマティック な展開を求める人なら首をひねってしまうことだろう。  雲の様子を延々と映した「風の積分」に似た一面もあるが、「風の積分」が 人間の生活と隔絶した論理で動く自然の世界を撮り続けるという点で科学的な 冷徹さ、厳しさを感じさせるのに対し、「極私的にコアの花たち」は自分の手 で集めた植物たちの愛しい表情を撮るわけだから「緩さ」が印象づけられる。 プライヴェートな感情が入り込む余地がある分、割り切って見ることのできる 「風の積分」よりも複雑な味わいを持つ作品だと言えるだろう。  一つ一つ丁寧に撮られた花々の映像にゆったり見入っていると、ここには確 かに大自然の営みがある、と思わざるを得ない。季節や天候の影響を受けやす い植物たちは、各々の命の形を開くために必死で闘っている。それは、ジャン グルでも、個人宅の小さな庭の中でも変わりない。生育するための懸命さとい うものが、映像から滲み出ている感じがする。この作品には、猫がまどろむ姿 の映像や、つけっぱなしのテレビやラジオの音声が頻繁に侵入してくる。植物 たちの闘いの場が、のんびりした日常と隣り合わせになっているということだ。 私たちも、のんきに日々を送っているように見えて、実はそれなりに生命を維 持するための闘いを行っているのかもしれない。  そう考えると、見ている時は50分はやや長いなと感じられたのであるが、 本当は2時間半くらいに引き延ばして、なるべく数多くの花をなるべく長い時 間見た方が、植物の生の意味合いを深く実感できるのかもしれないな、とも思 ったのだった。  見木久ヲの音楽がすばらしい。リズムと音色の変化が面白く、軽すぎず重す ぎずで映像とぴったり合っている気がした。最近の志郎康さんの映画の音楽で は間違いなくベストだと思う。  他に、このプログラムでは、寺島真里「shanghai flowers」(中国風のゴス ファッションに身を包んだ女性を延々と撮る)、太田曜「PILGRIMAGE OF TIME」 (フランスの聖地を撮った映像に様々なアレンジを加える)、万城目純「Silent Flowers field」(たくさんのインスタレーションに囲まれながら女性ダンサ ーが踊る)を見る。  見終わってから志郎康さんご夫妻に、川口晴美さんや白鳥信也ら詩人仲間と と一緒にうどんを食べながらお喋り。  その後更に、Mプログラム、Oプログラムを見る。Mプロのハルン・ファロ ッキ監督「一時中断」が面白かった。第二次世界大戦中に、ナチスの手でオラ ンダに作られたユダヤ人強制収容所を映した映像を編集したもの。もともとプ ロパガンダ用に撮影されたものらしいが、知らなかった事実が山盛りでびっく り。収容所の中では、ユダヤ人たちにやがて殺されるということを教えていな かったようだ。楽しそうに体操する姿や音楽会などのイベントに参加する姿が それを物語っている。収容所内の労働の様子もごく普通に撮られている。髪の 毛でクッションを作る映像もあり、女性たちが談笑しながら労働に従事する姿 には度肝を抜かれた。これらの映像を撮ったのも収容されたユダヤ人であり、 彼らはやがてアウシュビッツに送られ、死を迎えることとなるのだ。日本にも 戦争中のこうしたフィルムは残っていないのだろうか。もしあれば、是非編集 し直して公開して欲しいものだと思った。
4月20日(日)  11時過ぎに起き、即効で着替えて新橋のヤマハのTP教室へ。今日は音を 出すダイミングについての面白いレッスンだった。  原先生は、学生時代、コードやスケールをよく理解しないままにバンドで演 奏を行っていたが、その際に、音を出すダイミングだけに気を使い、フレーズ の終わりは必ず主調の音を吹くことにしていたという。それでも客から文句は 出ず、ちゃんと曲に聞こえていた、とのことだった。つまり、何の音を出すか よりも音を出すタイミングの方が音楽にとってずっと重要ということだ。これ は非常に興味深いご指摘だった。ぼくらはすぐフレーズの展開にばかり頭を使 ってしまうが、それでは一人で吹いているのと変わりがなく、バンド演奏をし ている意味がなくなってしまう。音を出すタイミングに敏感になることによっ て、メンバーと一緒に演奏をしている意味が生まれ、音楽を全体の中で捉えら れるようになる。ブルースを、フレーズの最初と最後の音のみを決めて、フレ ーズの展開を余り考えず、発音のタイミングに注力して吹く練習をしたが、こ れが思いのほか難しかった。吹いていない時でもリズムを感じるためには良い 練習であることがわかったので、帰ったらちょくちょくやってみよう。  帰りに松涛美術館に寄って「中西夏之新作展 絵画の鎖・光の森」を見る。日 本画のような形式美を持った抽象絵画という印象だが、模様と模様の「隙間」 の存在感が深い。描かれているものより、描かれていない空間の大きさを想像 させる。想像の余地を提供してくれる絵画であり、そのことによって、「形式 美」に陥ることから逃れている、と思った。
4月19日(土)  横浜馬車道のKing's Barで、ジャムセション仲間と内輪のライブをやる。  町田を中心に活動するグループと溝口を中心に活動するグループの合同ライ ブで、課題曲も決め、4つのバンドが競演した。  ぼくが属するバンドは、ラテン、フュージョン系の曲2曲と課題曲の「枯葉」 をやったが、ぼくは緊張してソロの長さを間違えてしまいました。スミマセン。 でも、楽しく演奏できて満足。バンドの演奏が終ったあとはセッションに突入 で、午後6時から11時半まで延々と演奏をしていました。  演奏する側が聞き手も兼ねているというのはなかなかいいものだ。互いのや っていることがよくわかるし、参考にもしやすい。音楽を糸口に、知らない人 とも話をしやすい。  楽器をやりたいという人は、是非ジャズを勉強して、セッションの楽しさを 知っていただければなあ、と思う、
4月18日(金)  仕事の後、スクロヴァチェフスキー指揮の読響の演奏を聞きにサントリーホ ールへ。  曲目はブルックナーの5番で、とんでもない名演だった。  こんなすばらしい演奏は、日本のオケでは聞いたことがない。この曲は、素 朴でシンプルなモチーフを幾重にも重ねていって、大河のような悠然とした流 れを作っていくところが特長だが、スクロヴァチェフスキーはまさに曲の構造 通りの演奏を行っているように思えた。とにかくオケへの指示が細かい。水の 小さな波紋一つ見逃さないような細密な演奏で、それを律儀に積み上げていっ て雄大な音響詩を築き上げていく。80歳を過ぎているスクロヴァチェフスキ ーは、驚いたことにこの長い曲を暗譜で指揮しているのだ。  オーケストラも指揮によく応えていて、熱気の漲った入魂の演奏だった。い やあ、本当にきてよかった。  演奏が終ってからスクロヴァチェフスキーは拍手で何度も何度も舞台に呼び 戻されていた。  会場を出て、守屋さん、原口さんと飲む。幸せな一日でした。  
4月13日(日)  詩誌『モーアシビ』で秋に行う朗読イベントの打ち合わせのために、渋谷の カフェラミルへ。五十嵐さんがナイスなアイディアを出して、楽しくなりそう な予感。  その後、帰宅して19日にやる内輪のライブの曲を練習をし、ちょっと明日 の会社の仕事の準備をしてから、サルサバンドの練習のため経堂へ。何とも慌 しい一日でした。  最近いただいた詩誌で印象に残った詩の感想。  「tab 9号」の長尾高弘さんの「空室」はアパートのドアを開けたら誰もい なかった、ということが書かれている。注釈で、それが図書館に返した本の気 に入った箇所の記憶からの引用であることが説明されている。描かれた情景が 小説の引用だというエピソードだけでできている詩で、余韻を意図的にカット している。こういう構造の作品は読んだことがなかったので興味深かった。小 説の主人公と「わたし」が同じように風邪をひいたというオチもうまいと思っ た。  「季刊 凛 13号」の野村尚志の「ぶちの猫」。近所の子供がブロック塀に 空き瓶を並べて遊んでいるというところから始まって、気にくわない人を思い 出し、ぶちの猫が入ってくるのを見て、天候を気にするところで終る。意味の 上で互いに強い連関のない日常の事柄を、時間軸にそってあえて無造作に並べ てみたという、尾形亀之助のある種の作品のような構造の詩。目の前の出来事 にも頭に浮かんだ想念にも執着してきれないことを明らかにすることで、孤独 の侘しさを浮かび上がらせている。一瞬、憎悪の感情が浮かび上がるところが アクセントになって、何でもない情景なのに緊迫感が漂う詩になっている。
4月12日(土)  鈴木志郎康さんより詩集『声の生地』をいただく。  今度の詩集は7年ぶりということだが、今までの詩集とはだいぶ趣きが違う という感じがする。志郎康さんは、一冊一冊の詩集をその意味あいをきちんと 考えて出す方なので、各々の詩集の特色がはっきりしているのはいつものこと (これはすごいこと!)なのだが、『声の生地』は戦略的な変化というよりも 人生観の変化を思わせるものがあった。  「極私」という言葉を発明した志郎康さんだが、ぼくは、実際の体験を生な 形で描いたものは余り多くはないのではないかと思う。普通は文学の題材とは ならないような日常生活における微細な事柄を、虚構を通じて、ある意味で巨 視的に表現することがメインに据えられて作品が創られているように感じる。 このことは、写真作品において魚眼レンズでの撮影を主軸にしていることと無 関係ではないだろう。そして、映画「15日間」においては、自分自身でさえ 管理ができないような、意味の固定がなされていない自己イメージ(日常その ものの中に置かれていることによってかえって日常の意味を裏返す)を執拗に 追いかけるということまでやってのけた。  しかし、『声の生地』では、人生を「素朴に」語ることに徹しているように 見える。詩集の後半に置かれた、幼少から就職する頃あたりまでを回顧した「 記憶の引き出し」連作は特にそうであろう。突っ走ることより、人の話を聞い たり、過去を思い出したりすることが多くなっている。今までの詩集と比べる と、穏やかな印象を与えられる。  だが、ここは志郎康さんのこと。「素朴」が素朴でなく、「回顧」が回顧で はない。  この詩集の最も大きな特長は、「話しかける」という行為の豊かな表情を伝 えてくれるところにあるのではないだろうか。文字を目で読むというより、作 者の肉声を聞いている感じがする。全編を通じて、作者は読者に、そして自分 自身に(過去の自分にも)話しかけている。自分自身に呼びかけているように 見えるところでも、決して独り言にはならず、自分という他者との対話を楽し んでいる。刻々と変化する自分の位置を的確に捉え、音源の在り処をその都度 明確に指し示すように声を発し、発したあとはその反響を確かめるーつまり、 現実での在り方に近い複雑なコミュニケーションの実現が目指されていると感 じられるのである。  この詩集は、もしかしたら、ロボット工学の実験に近いようなことをやって いるのではないだろうか。詩におけるモノローグの言葉は、ともすると、相手 を無視して自身の内面に執着し沈潜しようとする。そうした言葉に、ロボット が外界の刺激に対する反応を学習するように、現実世界での多様なコミュニケ ーションの仕方を学習させている詩というふうに読める。場面と相手を意識し た詩ということになるが、発話の主体である「わたし」も特別扱いせずに、「 場面」や「相手」の集合の元として扱っている。「わたし」を、作品の意味を 統制するヒーローとしてでなく、むしろ脇役として登場させているということ。 「わたし」が脱中心化されているので、「わたし」と周辺との距離の伸び縮み がよく見える。そのため、テーマが一見平板に見える程穏やかな場合でも、関 係性が細かいところまで動きを伴って描かれることになり、絶えずダイナミッ クなドラマが発生しているように感じられるようになる。  ぼくの考えでは、対象の意味を厳密に決定する代わりに一方向しか見渡せな い視覚性より、厳格さには欠けるが全方位的な聴覚性を重んじた詩集というこ とになる。目の前で語らっている教え子も、戦時中に戦闘機に追われる子供時 代の自分も、絶えず変動する「わたし」からの、その時々の位置の問題として 名指される。位置の測定は、一瞬の「耳」の判断で行われ、何かとても「きわ どい」ものを読んだという印象がそこから生まれてくる。  読み終わって、詩の書き方を勉強させていただいた気持ちになったのだった。 ぼくが日頃考えていることと問題意識が交差するところがあるようにも思えた ので、ちょっと前に読んだ『日々涙滴』同様、何度か読み返してみようと思っ た。  先週日曜は、北松戸CUBAでサルサのライブ。ラテンのライブは郊外のほ うが盛り上げるという法則(?)の通り、お客さんの賑やかな反応が楽しいラ イブになった。その地域のダンスのリーダーみたいな人が中心にいると、一体 感も生まれるので、演奏している側としてはラクになりますね。  次のライブは5月18日原宿クロコダイルです。