2008年6月

<TOP>に戻る


6月22日(日)
 雨が続きますね。定食屋でご飯を食べたあと、傘が盗まれていて、ずぶ濡れ
で帰宅しました。ビニール傘なんて安いんだから盗むなよ、と言いたいが、逆
に安いものだから盗むのに罪悪感がないのかもしれない。

 先週、志郎康さんに薦められたドキュメンタリー映画「いのちの食べかた」
(ニコラウス・ゲイハルター監督)を見る。オートメーション化された畜産・
精肉・農園の生産の過程を克明に撮影した作品。ある意味で想像通りの事が行
われていたのだが(家畜がベルトコンベヤーに乗せられて、自動的に命を絶た
れ、肉製品になる、など)、実際に映像を目で見てみるとショックを受けない
わけにはいかない。興味深かったのは、「工場」での従業員の様子が結構な時
間映っていること。彼らは無表情で淡々と動物の命を絶ち、死体を切り刻んで
「製品」を作っている。従業員の食事の様子も撮影されているが、彼らは、彼
らがたった今していた仕事と手にする食物が無関係であるかのように、もぐも
ぐ口を動かすばかりなのだ。
 この映画は一切の説明もなく、音楽もない。食品の大量生産の様子を注意深
く、細かく撮った映像を流すばかりなのだが、それだけにある真実の意味の判
断を観客に委ねてくるかのような重みがあった。
 たくさんの命が絶たれているのに、ここには死ではなく死の不在が感じられ
るのだ。

 知り合いのバンドを二つ聞く。
 同じサルサバンドでピアノを弾いている岩渕淳一君が参加したギターカルテ
ット(藤沢JACK)。スタンダードやミルトン・ナシメントの曲をやってい
た。爽やか系の演奏。ベースがめちゃめちゃうまかった。

 ジャムセッション仲間によるTP、TS、G、P、B、DS編成のバンド(
キンのツボ)。ジャズメッセンジャーズの曲を中心としたハード・バップが中
心。難しい曲をよくこなしていたが、多少リズムが走りぎみだったのが残念。

 今日は新宿LEONの2周年記念の催しでサルサの演奏をした。思ったより
も多くの、ノリのよいお客さんが集まってくれた。ベリーダンスの演技も見ら
れてまずまずの一日。


6月15日(日)  イメージフォーラムの「ヤングパースペクティブ2008」の「Hプログラム ド キュメンタリー」を見る。  石川千寿子の「温かい前菜」は、肉食に違和感を感じる作者が精肉の過程を 知ろうとする作品。肉屋や精肉会社からは門前払いを食わされてしまう。養豚 場のおじさんは「豚と肉の間にはギャップがある」と、育てている豚が屠殺さ れてからのことは関知しないという話をし、鶏を絞めて客に出す民宿のおばさ んは、生き物を殺すことの罪悪感を語る。作者はまた殺生をやめようと主張す る新興宗教の信者(?)の女性に会い、食肉は悪であり食べ物に感謝するくら いのことでは殺生の罪は消えないとの話もうかがう。その上で、作者は自分の 手で鶏をつぶして食べるということを思いつく。怖くて鶏の首をはねることが なかなかできず、泣きそうになりながら何とか事を果たす。が、殺した後も食 べ尽くすことができない。この映画では、誰もが心の底で「肉を食べる」こと に対して抱くであろう罪の意識を、徹底的に自分だけの感覚に即してて語るこ とで、体験としての迫力を生み出した映画と言えるだろう。  西原孝至の「きみはいま」は、渋谷で遊ぶ二人の若い女性の意識を描いたも の。都市の中で浮遊するように生きることへの不安が語られているが、もう少 し対象に近づいてくれないと作者の言わんとしていることが伝わってこないよ うな気もした。  阿部沙耶香の「家族の時間」は、梨とイチゴを作っている農家で生まれ育っ た作者が、家族との関係を見つめ直すというもの。と言ってもその視線は家族 を「対象」として突き放して見るのではない。あくまで自分もその一員であり、 暖かな愛情に包まれていることの自覚がある。高齢の祖父は介護が必要な程弱 っており、孫である作者の名前も忘れている。作者はその姿を愛情を込めて撮 り、物の分別がつかなくなりつつある祖父に必死で語りかけているかのようで ある。面白かったのは、おばあさんたちが三人集まってパーマをかけたという ことを話し合っているところがさりげなく挿入される場面。女性なら幾つにな ってもお洒落の気持ちがなくならないものなのだろうが、作者も同じ女性とし て素直に共感を示しているように思われた。  上映終了後に、鈴木志郎康さんと30分ほどお茶。五十嵐倫子さんが計画し ているポエムカフェの話など。    その後、ビックカメラでプリンターを買い、ちょっと仕事をした後サルサバ ンドの練習のため経堂へ。来週はラテン酒場LEONでライブです。
6月8日(日)  中国の地震、女性アナウンサーの自殺など悲しい報道が続いていたが、今日 は何と秋葉原で連続通り魔殺人があった。連続殺人というと、池田小学校の事 件を思い出すが、今度の相手は子供ではなく大人である。殺意のある人間には 抵抗のしようがない。不意を突かれたら終わりだ。亡くなられた方の冥福を祈 りたい。  野村尚志さんの「季刊 凛」に載っていた二編の詩に感銘を受ける。 「橋を渡って」は、自転車屋から踏み切りを渡り、更に橋を渡るまでの些細な 出来事や思いつきがただただ述べられていく。観念の深まりをあえて避けて、 発話をアクションとして取り扱うことに専念しているところが面白い。 「チラシ」は逆に、観念の提示に焦点を置いた作品。ドアにはさまったチラシ を巡り、短い分量の中でドアの「内側」と「外側」ということについて徹底的 に考える詩。ユーモラスでもあるが、抽象的な美しさもある。  どちらも(良い意味で)知的な作品で、発話とその対象の関係に鋭いメスを 入れているという印象を持った。  土曜日は溝口でジャムセッション。その前に、「ときの忘れもの」で永井桃 子、根岸文子、秋葉シスイ、三須研一という若い作家たちの絵を見る。会場に きていた秋葉シスイさんの、物語の一場面のような叙情的な作品が良かった。  そう言えば、昨日で44歳になっていました。立派な中年です。でも、特に 何の想いも湧きません。年齢を気にしないのもいい加減にしたほうがいいのか もしれない。