2009年1月

<TOP>に戻る


1月31日(土)
 疲れていたので昼間まで寝て、午後から小柳ギャラリーでやっている「束
芋 ハウス」展を見に行く。
 ビデオインスタレーション作品と10枚ほどのドローイングが展示されて
いた。ビデオインスタレーション(アニメ)は、グロテスクな面白さがあっ
た。大きな手がアパートのような建物の中に家具や調度品を運びいれ、その
最中にタコが意味もなく出没し、最後はドアから水が流れ出して建物全体が
水中に没してしまう、というのがおおざっぱなストーリー。生理的に嫌悪感
を催させるイメージが次から次へと出てくるが、くどい描き方ではなく、ユ
ーモアもあるので抵抗なく楽しめた。ドローイング作品は、この映像作品か
らイメージを借りたもので、やはりグロテスクな図柄だが、タッチが軽いの
でブラックユーモアとして普通に鑑賞できる。
 生理的な不快感を、造形を見る快感に変える技量は相当なものだと思った。
一種の「黒いドールハウス」であり、ドールハウスを愛でる感覚を裏返した
ものかもしれない。

 帰って、会社の仕事をちょっとやり、夕方から溝口にジャムセションへ。
新しい顔の人がいっぱいいて、また出会いを楽しめました。


1月25日(日)  朝10時頃、ノラ猫ファミを動物病院から引き取りに行く。おなかの傷跡 は痛々しいと言えば痛々しいが、先生によると治りが早く問題ないとのこと だった。人懐こい猫なのでノラ猫にするのはもったいないとも言われ、何だ かわからないが得意な気持ちになる。手術プラス入院費で4万ちょっとかか った。区役所から補助が出るのが16000円だからかなりの部分を住民が 個人負担することになる。それでもノラ猫対策に区が金を出すのは一歩前進 なのだろう。御礼を言って病院を後にする。  帰る途中、ファミは猫キャリーの中で暴れ出し、大きな鳴き声もあげるの で困ってしまった。猫キャリーで運ばれるとロクなことはないと学習してし まったのだろうか。それでもやっとアパートの近くまで来て放してやると、 たちまち兄弟猫たちが集まってきて、臭いを嗅ぎあった。「お前今までどこ 行ってたんだよ?」という感じである。猫同士でつるんでどこかへ消えてし まった。のも束の間、ベランダでニャーニャーいう声が聞こえたので窓を開 けるとファミが部屋の中に入ってきてしまった。いやな思いをさせたという のに、ぼくに対する印象は悪くなっていないらしい。買っておいた猫缶を皿 に盛ると、勢いよく食べ始めた。ミルクもごくごく飲んで、おなかがいっぱ いになると遊ぼうとするので、ちょっと相手をしてやってから庭に出した。 とにかく元気いっぱいだったので安心。     お昼にヤマハでトランペットのレッスン。各自で作ったOrnithol ogyの譜面を初見で吹き、課題曲のHow My Heart Sing sを吹いた。3拍子と4拍子が交代するこの曲を流れるようによどみなく演 奏するのはかなり難しい。「小節線の垣根を越えた自由な演奏にチャレンジ するのは良いが、自然な流れの中でやらないとかえって音楽を束縛すること になる」との指摘になるほどと思う。  レッスンを終えて家に戻ったら門でファミが待ち構えていて、今日は退院 祝いにとことん遊んでもらいたい、みたいな顔をしていたのでした☆ 
1月24日(土)  不妊手術のため入院させていたノラ猫のファミの様子を見に、ブライト動 物病院へ。受付の女性がぼくの顔を見るなり、「ファミちゃんですか?」と 聞いてきたのに少し驚く。こういうところで働く人はやっぱり動物好きなん でしょうね。  ファミは首の周りにラッパ型の襟巻きのようなものを巻いていたが、これ は猫が傷口を舐めるのを防止するためだという。それが窮屈そうで高い声で 鳴いていたが、元気そうだった。先生によると、経過は良好で食欲もあると のこと。看護師の方が、人懐こいので扱いやすいと言っていた。抜歯が必要 ない種類の手術を行ったので翌日には退院ができるという。安心して、ファ ミの頭を撫でてやってから帰宅した。    夕方、渋谷に出て修理に出していた携帯電話を受け取り、その足で外苑前 の「ときの忘れもの」にエルンスト・ハースの写真展を見に行く。スタイリ ッシュで格好よく、同時に親密感も抱かせてくれる作品だった。三人の少年 が昼寝する姿を撮った「エジプトの少年たち」が特に印象に残った。  白鳥信也さんからいただいた「フットスタンプ 第16号」を読む。深夜 も店を開けている肉屋の様子を丁寧に描いた樋口えみこ「夜の精肉店」、入 院先の病院での美人の看護師さんとの出会いを喜ぶ田辺武「白い新世界」、 子供の頃の思い出を語った白鳥信也のエッセイ「ゴジラ塔、化石、土器拾い」 が特に面白かった。白鳥さんのエッセイは、表現方法こそ違え、大人と子供 の心の仕組みは案外変わらないものだと教えてくれるような感じを受けた。 北爪満喜さんを迎えての座談会も北爪さんの作品の作り方がよくわかって興 味深かったが、少し話題を広げて状況論も交えてくれるとより面白くなった んじゃないかとも思った。 
1月23日(金)  退社後、原朋直クヮルテットの演奏を聞きに御茶ノ水NARUへ。  原さんはヤマハでのぼくのトランペットの先生なのだが、今日の演奏の余 りの自由自在ぶりにのけぞってしまった。こんなすごい人に指導していただ いていいのかな?  スタンダードナンバーを中心に演奏したが、小節線をまたいだ、大胆なリ ズムの崩し方が顕著な演奏で、スタンダードが全くスタンダードに聞こえな い。今回は大きな音、ハイトーン、高速フレーズはやや控えめにして、弱音 を大事にした、中低音・ロングトーン主体の演奏だった。派手さよりも繊細 なニュアンスを重視しており、聞き込めば聞き込む程味が出るような、濃厚 な音楽だった。原さん自身がすごいだけでなく、バンドのアンサンブルがも のすごくて、ちょっとしたきっかけで演奏の方向がガラッと変わったりする。 それでも全体像が見失われることがなく、スリリングでいながら安心して楽 しめる。一部にマナーの悪いお客さんがいて、ちょっと気になった。  同じヤマハのクラスの渡辺さんが来ていたので挨拶。渡辺さんの高校の後 輩でチェロをやられているという女性の方とも挨拶を交わす。  11時終演。神保町近くの昔よく来ていた店でミソラーメンを食べて帰る。
1月21日(水)  詩誌「モーアシビ」の発送及びちょっと遅い新年会。七月堂に着いた時は もう8時前で発送作業は終っていた。どうもすみません。  昆虫食の研究家である内山さんから蚕のさなぎをいただき、食べる。木の 実みたいな風味でおいしかった。昆虫食は何だかこれからブレイクしそうな 予感がある。  七月堂を出た後、居酒屋で遅い新年会。今号で7年ぶりに詩を書いたとい う呉生さとこさんと話せたのが嬉しかった。呉生さんとは昔、「卵座」とい う同人誌をやっていた。その後しばらく詩を書いていなかったが、自分の心 情を伝えるにはやはり詩が一番だと語っていたのが印象に残った。作品「生 贄の女王」は、病気をきっかけに自身の女性性を見つめ直すというもので、 母や祖母、曾祖母と、家系の中での女性の位置についても考察している。1 943年11月18日という年月日がベルリンという地名とともに記載され ているので、第二次世界大戦のベルリン空爆の残虐さについても絡めて書い ていると思われるが、この辺りは少しわかりづらいと感じた。いずれにして も、病苦が時間の厚みの中で捉え直され、人生の節目となる出来事と対決し ていこうとする気持ちが漲っていて、読み応えのある一編だと思った。  「もーあしび」同人の大橋弘とは今日初めて会った。共通の知り合いがい たことがわかった。歌集『からまり』をいただいたが、映像的・演劇的な作 品が多く、短い字数の中にダイナミックな動きが感じられ、ユーモアもあっ て楽しめた。  「モーアシビ」16号は100ページ以上もあって定価は500円。お買 い得の一冊ですよ。
1月18日(日)  午前中、面倒をみているノラ猫の一匹に、不妊手術を施すため動物病院に 連れていく。通販で買った猫キャリーにおもちゃになるものを放り込んだら それを追って飛び込んだので、すぐチャックを閉めた。この猫はなついてい るので捕まえるのは簡単だった。  歩いて3,4分の動物病院に入ったところでキャリーの中の猫が暴れだし、 悲鳴のような鳴き声をあげ始めた。いじらしかったが致し方ない。猫は手術 後の抜歯も含め、1週間程度の入院が必要との説明を受けた。また、質問し たところでは、ノラ猫を捕獲する良いやり方というのは余りないようだった。 都市では動物の運命は人間の手に握られている。不妊手術を強行するという のは、全く人間の都合でしかないが、ぼくは人間なのでぼくが属している種 の都合に従う、ということ。重い気分になり、すごく疲れてしまって、昼間 の大部分をぼーっと寝てすごしてしまった。  きのうは「現代詩の会」で詩の合評。提出したぼくの作品「ノラ猫にまつ わるこれまでの話&その後の話」は、「不思議な詩だ」という声と「詩とし ては面白くない」という声の両方が出た。実は、後者の感想は予想、という より期待していたものだったので、ちゃんとそういう意見が出て少しほっと した。今書いている「ノラ猫詩」群は、「どうして詩が『詩として』面白く なければならないのか?」という問題意識の下に書かれている。つまり、詩 は人が人と濃密なコミュニケーションを結ぶためにあるにも関わらず、いつ のまにか「自律した芸術作品として人の心を打つもの」として暗黙のうちに 定義され、「詩としての」という枠がもうけられてしまっている。そしてこ の「詩」には、既存の「良い詩」のイメージが暗黙のうちに張り付いてしま っている。そこで、ブログ日記をそのまま貼り付けたかのような、コミュニ ケーションは闇雲に目指すがとことん詩的でないテキストを、詩と称して提 出してみたわけだ。ベタな日常をベタに描きながら、それを読者にメタな態 度で提供したというわけ。この「ベタ」と「メタ」のねじれが生むドライブ 感を狙ったということですね。    提出された作品の中では、想念が不条理に移り変わっていくブリングルさ んの「身籠もる」と「ルーシー」が面白かった。毛利珠江さんの「ハイビス カス」と「れんげそう」も良かったが、もっとユーモアのセンスというか、 軽妙さがあるといいなと感じた。    終って故障していた携帯をドコモショップに持って行き、急いで溝口ジャ ムセッションへ。新しい顔が多く、出会いを楽しめたセッションでした。
1月15日(木)  アメリカのヴァイオリニストヒラリー・ハーンのリサイタルを聞く(東京 オペラシティコンサートホール)。  曲目は、イザイ:無伴奏ヴァイオリンソナタ4番、アイヴズ:ヴァイオリ ンソナタ4番『キャンプの集いの子供の日』、ブラームス:ハンガリー舞曲 集、アイブズ:ヴァイオリンソナタ2番、イザイ:無伴奏ヴァイオリンソナ タ6番、イザイ:子供の夢、アイブズ:ヴァイオリンソナタ1番、バルトー ク:ルーマニア舞曲、という意欲的なもの。前衛性と大衆性の接点を模索し た作品をうまく集めたという感じだ。  ハーンの演奏は非常に端正なもので、ルーマニア舞曲のような曲でも派手 にこぶしをきかせることはない。音もせいぜいメゾフォルテくらいが上限だ。 但し、一見して端正な中に、創意が凝らしていて、一瞬たりとも飽きさせる ことがない。音は豊かに鳴っていてコントロールが行き届いているし、微妙 な間合いをとったテンポルバートが自然な呼吸を生んでいる。ハンガリー舞 曲などは、19世紀のクラシック音楽が20世紀のポピュラー音楽に抜けて いこうとする「予感」のようなものが感じられてスリリングだった。イザイ の無伴奏ソナタでは、きちっとした枠の中で自由奔放なアイディアをこれで もかとばかりに詰め込んでいて、今回のリサイタルで一番の出来だったよう に思える。アイブズのソナタは、やや地味な印象を与える演奏だったかもし れないが、ぼくにはアイブズが行った「音のコラージュ」の意味をすごくよ く考えた演奏であるように思えた。互いに相容れないような、出自の異なる 各サウンドを共存させるために、時にはあえてソロヴァイオリンが背景に退 き、ピアノを派手に前面に出す、ということもやっていたように思う。自分 の音を聞かせられればそれで良いのではなく、音楽の全体を見つめる目が しっかりとある人だなと好感を持った。  パガニーニとブラームスをアンコールで弾き、終演後はサイン会が催され て長蛇の列ができていた。ハーンは、写真で見てきれいだけど人工的な顔み たいなイメージを持っていたのだが(ごめんなさい)、実物は全くそんなこ とはないです。細身で暖かな表情の美人です。でも演奏家はアイドルではな いのでサイン会はもちろんスルーし、一緒に演奏を楽しんだ守屋さん、佐々 木さん、柿沼さんで近くの居酒屋に行って談笑。最近仕事がきついのだが、 疲れがふっとんだひとときだった。
1月12日(月)  詩を一編書き上げてから世田谷美術館に「十二の旅 感性と経験のイギリ ス美術」展を見る。コンスタブル、ターナーからホックニーやアンディ・ゴ ールズワージーまでの作品を「旅」というテーマで括って企画したもの。時 代も傾向もバラバラなので、有機的なつながりは余り感じられなかったが、 個々の作品は質が良くて楽しめた。  コンスタブルのデッサンがとても繊細で、風流と言ってもよいような雰囲 気を醸しだしているのが印象的だった。ターナーはとにかく色がすばらしい。 初めて見たボイル・ファミリーは、地図にダーツを投げて制作する土地を決 定するアーティスト家族だが、砂などの素材を大胆に使った、タピエスにち ょっと似た作風。ナッシュやゴールズワージーも、現地で調達した素材を使 ってその場で制作する作家だから、彼らだけでまとめて企画した方が統一は 取れたのではないかと思ったりした。  バーナード・リーチのユーモアたっぷりの陶芸作品(特に蛸の図柄のもの) も含め、あえて言うなら、過激で実験的でありながら、ユーモアと平常心を 忘れないというのがイギリス美術の特長かな、と感じた。自我を押しつけず、 見ている人とゆったり対話する包容力がある。  世田谷美術館の収蔵品展「難波田史男」展も感動的だった。難波田史男 はぼくの大好きな画家で、夢の中で遊び続けるような、かわいらしくもナイ ーブな美しさが気に入っている。今回の展示も、一点一点、穴が開くほどじ っくり見てしまった。手の届かない世界に手を伸ばし続ける精神の営為がど の作品からも強烈に伝わってくる。特に1967年以降の水彩画に見られる あの微妙な滲みは、他の画家には見られないものだ。もう一回行きたい。  閉館時間ぎりぎりまで粘って鑑賞した後、用賀の駅近くの蕎麦屋で蕎麦定 食を食べてほぼ一日が終了。帰ってメールの返事などを書き、会社の仕事を 少しして就寝。  
1月9日(金)  あけましておめでとうございます。  31日の夜から3日まで実家に帰り、例年通り寝正月を楽しんだ。  妹夫婦とご飯を食べた他は特に何もせず、本を読んだり原稿を書いたりし て過ごした。帰宅したら、面倒を見ているノラ猫たちが総出で出迎えてくれ、 熱烈歓迎をしてくれました。  特別なことはしなかった代わりに、近所を随分散歩した。初詣も歩いてい ける八幡神社だった。故郷の神奈川県伊勢原市は、駅前にあった店が随分入 れ替わっていて、不景気の影響かな、と感じさせられた。ただ、新しい住宅 がかなり建っていて、決して寂れてはいない印象だ。映画館もないし、何か エンターティメント施設があるといいのだが、まだそこまでは無理かなとい う感じ。  正月休みに読んだ小倉紀蔵『日中韓はひとつになれない』(角川ONEテ ーマ21)は面白かった。最近、東アジア共同体の構想が叫ばれているが、 著者は「共同体」ではなく「共異体」でなければならない、という。  それは東アジアの国々の中でも中国、特に韓国は、性善説の思想的伝統が あり、性悪説の伝統を持つ日本とは相容れないからだというのが趣旨だ。性 善説は、正義の観念を軸に相手にゆさぶりをかけて事態を変革しようとする が、性悪説は正しいかどうかよりも物事がうまく運べば良しとするので、の らりくらりとした対応を取る。中国・韓国と日本はものの考え方が違いすぎ て、一体となろうとすれば足並みがそろわなくなり、失敗するという。そこ で、著者は、ダイナミックな変化を起こす力のある韓国を中心に据え、損得 勘定の得意な日本を監視役につける「共異体」を推奨するのである。  日中韓の政治的なきしみを文化面からすっきりと解説した本で、その真偽 を確かめる力はぼくにはないが、説得力を感じた一冊だった。EUとは違う タイプの経済共同体のイメージがいくらか掴めた気がしたのだった。  トランペッターのフレディ・ハバードが70歳で逝去。パワーに溢れた彼 の演奏は、学生の頃から憧れの対象であり、コピーもたくさんした(コピー した譜面は難しすぎて吹けないことが多かったが)。ご冥福をお祈りします。  「文学界」二月号に、ぼくの詩「ペットボトルは猫よけには効かない」が 掲載されています。よろしければちょっと覗いてやって下さい。