2011年1月

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1月30日(日)  ヤマハの原朋直教室へ。チェロキーを速いテンポで2本のトランペットだ けで吹く練習。少し遅いテンポならそれなりに相手の演奏に呼応できるよう になったが、速くなると空中分解しそうになる。難しいものですね。  帰ってメルマガの原稿を書き、夕方、江古田バディへ。今日はサルサのラ イブがある。一時間程リハーサルをして、定食屋でご飯。この定食屋さんが、 律儀なもので、ぼくらが大勢で入ってきたために仕事が忙しくなり、一旦、 「準備中」の札を出してしまう。食後、コーヒーを飲みに行き、ライブハウ スに戻って対バンのリサゴサの演奏を聞く。8時半頃出番。ちょっとリズム が走ってしまう場面もあったがまずまずの出来。踊ってくれるお客さんもた くさんいた。演奏終了後、ビールを飲みながら知り合いと歓談。
1月10日(月)  新国立劇場で「トリスタンとイゾルデ」を聞く。4時間程もかかるオペラ だが、全く退屈しなかった。何より大野和士の指揮がすばらしい。音量はせ いぜい8分目に抑え、代わりに繊細で起伏のある音楽作りを目指す。どのよ うにドラマが進行しているかがオーケストラの音を聞くだけでわかる程だ。 東京フィルもノーミスの好演。歌手も良かった。イゾルデのイレーネ・テオ リン、トリスタンのステファン・グールドともに、長丁場を全くバテずに最 後までダイナミックに歌いきっていたのが印象に残る。デイヴィッド・マク ヴィガーの演出は、舞台に水を張るという荒業を見せてくれたが、内容的に はごくオーソドックスで、大野の指揮と同じく、繊細な味わいがあった。誘 ってくれた守屋さんが風邪で来られなくなってしまったのが残念。終わって 田沢さん、柿沼さん、佐々木さんと歓談。みんなでご飯に行くつもりが、田 沢さんと混雑の中ではぐれてしまい、残りのメンバーで韓国料理屋で1時間 程だべる。
1月8日(土)  久しぶりに万希のジャムセッションに行く。溝口のセッションでの知り合 いのドラマーのはるかちゃんと前に一度お会いしたことのある中年のギター の方が来ていた。ホストのドラマーの浅田さんは今日はサックスを吹く。多 才なのにびっくり。はるかちゃんのドラムもアグレッシブになっていて良か った。3時間程、楽しく演奏できたが、この客の入りは問題だという話にな り、皆経営者でもないのに先を案じたりする。帰りに代々木で降りて台湾ラ ーメンなるラーメンを食べる。  遅くなりましたが、いただいた詩集の感想。  長田典子さんの『清潔な獣』(砂子屋書房)は、短編小説集のような詩集。 複数のキャラクターを話者にして、それぞれの人生の物語を語らせている。 それは自分を粗末に扱う男に執着する女性であったり、援助交際に走る少女 だったり、援交少女を買うフリーターの男性だったりする。典型的な「負け 組」たちを主人公に据えて、自分の心の中にあるコンプレックスを比喩的に 表現しようとしたのではないかと思った。各作品ではほぼ時系列に沿ってス トーリーが丁寧に展開されており、川口晴美さんが栞の中で「これは小説か もしれないと考える読者もいるかもしれない。だが、これはまぎれもなく詩 だ」と強調しているが、その心配は杞憂ではないかと思う。散文詩系の作品 では故意に句読点を省いた文体にしているし、情けない男の一人称の中に「 もうすぐ朝が夜に完全に脱皮する」というような「詩的な表現」が使われて いる。むしろ、現代小説の体裁を借りた「詩」なんですよ、という点を強調 した作品集のように見える。つまりこの詩集は、作者が過去の苦しんだ自分 の心の姿をできるだけ客観的に見つめた結果、過去の心の傷を「詩」という オブラートに包めるまでになったことを、読者に伝えようとしているのでは ないか。だから、これらの詩編から登場人物たちの心境を掬うだけでなく、 登場人物の背後にある作者の吹っ切れた(吹っ切れようとしている)心境ま でも読みこむのでなければ、この詩集を読んだことにはならないという気が する。ぼくは最近、逆に書いた詩が読者に「詩」と受け取られなくてもかま うもんか、という考えに傾いているので、この詩集の試みを余計に興味深く 感じた。先ほど「吹っ切れた」と書いたが、疼きや迷いの残滓はまだ言葉の 中に隠されていて、それがこの詩集に複雑な魅力を与えているとも思う。  毛利珠江さんの『みみぱぁまぁ』( 書肆山田)は、第1詩集から18年後 の新詩集。その間、クアラルンプールやイスタンブールで生活することがあ ったり、難病を患うことになったりということがあったようだ。更に、精神 的に不安定だった若い頃の話や、幼い時の記憶、家族との関係なども赤裸々 に告白している。現在の自分の全てを曝け出した詩集であると言えそうだ。 散文詩と行分け詩が半々くらいの割合だが、語調は余り変わらない。描写が 非常に鮮やかで、心情をこめる余りに、情景が奇怪な何者かに変貌していく 様がスリリング。何しろ花が咲く、というだけであの世への入り口が開いて いく感じだ。この詩集を読むと、毛利さんは、家庭環境や対人関係、病気、 異国の風土などから絶えず抑圧を感じていたのだな、ということがわかる。 それを表に出したり人に相談したりするのが不得意で、鬱屈することが多か った、その鬱屈を払う手段として、切実に詩を欲したのだろう。だから毛利 さんの詩を読むと、詩の存在意義が改めて重みを持って感じられてくる。今 度の詩集を読んで特に印象的だったのは、庭で花を育てていることを書いた 作品群で、毛利さんはここで花をダメにするコガネムシや蟻のことをひどく 怒り、まるで悪魔のような禍々しいものとみなして、徹底的に駆除するのだ。 これには驚いた。毛利さんは、他の詩では運命にいたぶられることの苦難を 苦い官能を伴って幻想的にうたいあげているのだが、草木を食む昆虫に対し ては「いたぶる」側に周り、排除の権力を思い切り行使するのである。被害 者意識を描くと同時に、(害虫に対してではあっても)加害者としての自分 を描くことができる毛利さんの、詩人としての公平な目に、ぼくは深く打た れる。「ハイビスカス(盛夏)」という詩では、嫌悪感からカマキリを殺す ことがうたわれている。カマキリから見れば、人間は狂った強者であろう。 自分の中の内なる攻撃性を隠さず表現できるところに、第1詩集からの毛利 さんの進化がうかがえるように思う。ただ、ぼおっとしている時とか笑っち ゃう時とか、そういう人生のワンシーンも描いて欲しい。それがぽくの希望 だ。今のままだと、人生は悲劇の連続のように描かれてしまっているが、実 際は決してそうではないでしょう。冗談に笑いこけることもあれば、お茶を おいしいと思うこともある。「取るに足らないこと」だって、ちゃんと人生 のひとコマを成しているのだから、そういうものからも目をそらさないで欲 しいなというのがぼくの希望だ。
1月4日(火)  3日まで帰省。実家はリフォームがすっかり終わってきれいになっていた。 庭に面したガラス戸にカーテンをつけず、もう一つ障子戸をつけた工夫が良 い。破れにくい特殊な紙を張った障子で、見た目も良く、二重戸になってい るので温かい。父のアイディアだが斬新で、洋風建築にもよく合うだろう。  3日の午後に妹夫婦と食事した他はもっぱら猫と遊ぶ。ファミはますます マイペースのわがまま猫になって、人を使うのがうまくなった感じだ。レド は相変わらず臆病なところと甘えん坊なところが同居していて、近づくとふ っと避けて逃げたり、そうかと思うと身をくねらせて甘えてきたりする。だ が、ファミとレドは正反対の性格ながら仲がメチャクチャ良いので、飼って いる方としては楽だ。  空いている時間を利用して近くの神社にお参りし、そこらを散歩したが、 数年前から起こっていた一種の沈滞した感じは底を打ったようで、新しい家 も立ち始めたし、前よりも活気が戻ってきているように思えた。  今日は会社の新年会。場所は椿山荘フォーシーズンズホテル。昼間から結 構酒を飲んでしまった。最近、ウイスキーが好きになって、弱いくせに二杯 三杯と飲んでしまうから危ない。帰りは酔いざましのため、バスに乗らず歩 いて目白駅まで。これがなかなか気分が良かった。すごいカメラで電車を撮 影しているおじさんの姿が面白かったり。
1月1日(土)  皆様、あけましておめでとうございます。  昨日は用賀のライブハウス「キンのツボ」で年越しジャムセッションに参 加しました。8時頃から演奏し始めて、飲んで、おそばを食べて、カウント ダウンで新年を祝って、用賀神社で初詣して、ファミリーレストランで始発 を待つ、というフルコース。6時頃自宅に戻り、ひと寝入りして、今これを 書いています。年越しセッションに参加したのは実は初めてだったが、今回 は20人程が参加して盛況だった。いやあ、世の中にはテレビを見ながら静 かに大みそかを過ごすより、セッションを取るという人がかなりいるんです ね。みんなよく飲むし、演奏したがり屋さんばかりなので、楽しめたのでは ないかと思う。ぼくも楽しかったし。  昨年は詩よりもジャズの演奏に力を入れた。サルサバンド、ロス・ボラー チョスの新メンバーでの演奏も安定してきたし、千葉香織クインテットでの ライブも2回行った。ジャズは継続して頑張りたいけれど、詩にももっと力 を注ぎこみたいと思います。  それではこれから帰省します。  本年もよろしくお願いします。