2011年10月

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10月30日(日)
 お昼に新橋ヤマハのトランペット教室。Just one of those thingsを速いテンポ
で、トランペット2本だけで演奏する練習。この曲はコードも結構難しいのだが、
リズムセクションなしで完璧に演奏するには、相手の音を聞く力と完全に自立して
一本だけで吹きぬける力の両方が必要となる。うーん、最後の方になると疲れてリ
ズムが乱れてしまいますね。呼吸の安定といっぱいいっぱいにならない心の余裕が
大事だとわかりました。精進します。

 夜は、六本木のサルサスダーダでライブ。お客さんがたくさん入ってくれて、嬉
しかったのだが、どうもぼくらのやっているおっとりしたサルサよりも、クラブ系
の音楽を好む方が多かったようで、ノリは今ひとつ。本当は、こういう方々もノリ
ノリにさせるだけの実力を備えてなければならないのだが、少しパワー不足だった
か。気持ちを切り替えて練習に励もう。

10月29日(土)  イメージフォーラムで「鈴木志郎康作品上映会 極私点360°」を見る。旅をテー マにした作品群「あじさいならい」「眺め斜め」「景色を過ぎて」と、レイトショ ーの「15日間」の4つの作品。ほとんど半日映画を見ていたことになる。  若き日の中沢新一の語りを映した「眺め斜め」以外は一度見たことのある作品ば かりだったが、改めて面白く感じた。前に見た時は、自由奔放に撮っているなあと いう印象だったが、2回目となると感想がかなり変わってくる。映っているものは 「私」のきままな行動の通りで、その意味では即興的と言ってよいほどなのだが、 それらを映画のフレームに収める時、これらのきままな行動、きままな見聞をいろ いろな角度から、厳しく吟味していることが強く印象づけられる。映っていること と映っているものを認識することの間のズレ、二重性がユニークなのだ。「15日間」 では、見たくない自分の姿を延々と撮ることで、自分というものの不気味さを引き 出している。見たくないものを見るように強制する残酷な装置として映画が機能し ており、見られたくない自分と見ることを強制する自分のデッドヒートが、非現実 性を醸し出し、異様な興奮を掻き立てるのである。イントロの原爆の被害者の映像 とベーコンの絵の意味が今回よくわかった気がする。  新刊の評論集『結局極私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)が受付で販売さ れていたので早速購入。読むのが楽しみだ。
10月28日(金)  今井義行詩集『時刻の、いのり』(思潮社)を読んだ。これはいろいろな問題を 含む詩集で、感動したと同時に考えさせられるものがあった。今井さんは重い鬱病 に罹り、遂に会社を辞める程に病状が進んでしまった。この詩集の作品は、闘病の つらい時期に、自分を励ますために毎日ミクシィに書いたものだ。体調が悪くて仕 事にも行けない状態、詩人として生きるのでなければ自分の存在価値がなくなって しまうという決意のもとで書かれた作品だ。命綱として詩が機能しているというこ と。こんな例をぼくは他に知らない。  詩集には、ミクシィに発表された通りの形、横書き、日付・時刻つきで活字が組 まれている。毎日書くわけだから粒ぞろいというわけにはいかない。多少の出来不 出来はあるし、中には、かなり甘い作品もある。しかし、出来不出来を越えて、全 作品が一つの作品として訴えかけてくる。今井さんの実際の苦闘の全軌跡が見えて しまうのだから、読む方としては戦慄せざるを得ない。風俗やマッサージに行った 話、幻覚や幻聴に悩まされる話、お母さんの話、どれからも赤裸々としか言いよう のない心の姿が見える。中にはユーモアのある作品もあって、体調のせいで舌が回 らなくなり、フランスパンを「フランスペイン」と言ってしまう、という詩は、深 刻な状態を笑い飛ばすような明るさがあって面白い。苦しんではいるが、結局彼は 生きることを選んでおり、生きていることを必死で楽しもうとしているのだ。そし て生きるためには詩を書き、詩人であることを維持することが必要条件なのだ。 昨年の野村尚志さんの詩集やこの詩集では、最早凝った比喩は関心事の中心には なく、通常のやり方では満たせないような、親密で特殊なコミュニケーションの磁 場を築くことが重視されている(ぼくの『真空行動』も似たような面がある)。語 りの行動性を印象づけることが大きな関心事となっているのだ。この動きは詩にと って、大きな転換点となるのではないだろうか。
10月20日(木)  スクロヴァチェフスキー指揮ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイ ツ放送フィルハーモニー管弦楽団の2日目。曲目はシューマンの4番とブルックナー の9番。シューマンは甘さを抑えて、ベートーヴェン風の雄渾な面を際立たせた演奏 だった。シューマンがベートーヴェンに影響を受けていたことがとてもよくわかる。 ホルン奏者がすばらしく良い音を出していた。ブルックナーの9番は、テンポを大き く動かしながらのロマンティックな演奏で、大自然を前にするかのような荘厳な印 象の音楽。演奏が終わって、余りの美しさにしばらく動けなかった。やはり、この 指揮者のブルックナー解釈は特別だ。2日間、スクロヴァチェフスキーの演奏を聞き、 以前よりも更にロマンティックな情緒を大切にしている様がうかがえた。高齢にな ってまだ成長を止めない姿に頭が下がる。
10月19日(水)  退社後、スクロヴァチェフスキー指揮ザールブリュッケン・カイザースラウテル ン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聞きに、東京オペラシティコン サートホールへ。曲目はモーツァルトの41番「ジュピター」とブルックナーの4番「 ロマンティック」。スクロヴァチェフスキーは、もう90近い年齢で、足取りもち ょっとよろよろしているが、指揮台に上がると見違えるようにしゃきっとする。「 ジュピター」はものすごい名演で、こんなすごいモーツァルトを聞いたのは本当に 久しぶりだ。テンポはやや速めで、微妙な振り幅でよくルバートする。モーツァル トはごまかしがきかないから、アンサンブルの乱れが目立ってしまうが、オーケス トラが優秀でよく棒についていっていた。シューベルト寄りの叙情的なモーツァル トだった。「ロマンティック」は、一転して大編成の音楽だが、ここでもスクロヴ ァチェフスキーは小刻みにテンポを揺らしながらよく歌わせていた。常に小味で勝 負しながらいつのまにか雄大な流れを作っている。「ロマンティック」は平板にな りがちな曲だが、全くそうならなかったのはすぐれた演奏のおかげだろう。  翌日も別のプログラムを聞く。
10月14日(金)  退社後、マレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団の演奏を聴きに、東京オ ペラシティコンサートホールへ。  プログラムはブラームスの3番と4番。ヤノフスキの音楽作りは、ダイナミクス の幅をうんと取って強弱を鮮明につけるということと、楽器と楽器の絡みの妙にス ポットライトを当て、室内楽のような親密さを演出することに、特色がある。遅い テンポの静かな楽章でも緊張感が途切れないし、賑やかな箇所ではあっと驚く程の 音量を出したりする。緩急の対比が音楽を作る、という信念がとても鮮明で、特に 4番の4楽章のパッサカリアでその真価が存分に発揮された。ブラームスが意外と ワーグナー的な音響を使っていること、そして複雑な構造を絶えず曲の細部に仕込 んでいること、がよくわかる。ブラームスの革新性が印象づけられる。  オーケストラは非常にうまく、金管、特にホルンの名人芸に驚かされた。アンコ ールの「ロゼムンデ」序曲も良かった。  終わって、著述家の守屋さんや永谷園の川上さんたちと一緒に韓国料理屋で飲む。
10月10日(月)  黒坂圭太のアニメ映画『緑子/MIDORI-KO』を見に行く(アップリンクファクトリ ー)。黒坂圭太の作品は、イメージフォーラムで幾つか見ているが、今回の作品は 初の長編ということで期待した。  予測される食糧危機に備えるべく開発された「MIDORI-KO」という食品(肉と野菜 を兼ねている)が、食べられることを拒否して研究所を飛び出す。農学の勉強をし ながら野菜を売って生計を立てている少女がそれを拾い、飼育するが、その存在が 周囲にバレてしまう。科学者たちやアパートの住人との壮絶な追いかけっこが始まる、 といった内容。  登場人物は、主人公の少女以外はほぼバケモノの容貌をしており(頭がサカナや カエルだったりする)、アパートの構造も迷宮的というか、それ自体が生物のよう だが、それが当たり前のこととして受け止められている。派手な排泄のシーンも多 いが、それは旺盛な食欲の裏返しとして自然に表現されている。境界が、設定され ては乗り越えられていく、その繰り返しを楽しむという作品だった。一種のユート ピア映画だろう。ナンセンスという種子を、映画が生育していく過程がすばらしか った。
10月9日(日)  詩集『真空行動』の送付作業にかかりっきりだったこのところ。ようやくひと区 切りついた。しかし、自分が趣味で作ったものを勝手に人様のところに送りつける など、本当は失礼な話だ。改めて考えてみると恐縮してしまう。まあ、これが現代 詩の慣習ということで、送られた方々、お許し下さい。  何人かの方から手紙やEメールで感想をいただいたが、皆、内容をよく掴んでい てびっくり。「詩作品と思われなくてもかまわない」とした詩とも散文ともつかな い作品の「中身」がきちんと伝わっていることに、嬉しさを感じると同時に安堵す る。個人的なことばかり書き連ねていたが、どうやら独りよがりには陥らずにすん だようだ。数は少ないけれど、「読者」はいるものなのだ。自信になった。読み返 してみると結構反省点も出てきたが、それの克服も含めてそろそろ次のステージの 詩を書き始めたいと思う。  詩誌や詩集も幾つか読んだ。それぞれざっと感想を記す。宮尾節子さんの『恋文 病』は生きていくことの指針や信条を連ねたような詩集。やや感情を説明的に述べ るところが惜しいと感じたが、自分に言い聞かせるような率直な書き方が印象的だ った。中では「100m父」という作品が面白かった。100m先を歩いている見知らぬ 男を亡き父に見立てて想いを述べるというもの。父と100m父のズレが、ユーモアと 哀感を生む。  森山恵さんの『みどりの領分』は、キリスト教の信仰を頼りに人生を歩む作者の 感情の噴出を描いた詩集。強い想いが神秘的なものへの傾斜に変わり、ダイナミッ クな幻想的な空間を形作っていく。鳥のイメージがたくさん出てくるが、これは作 中にも名前が出てくるカトリシズムの作曲家オリヴィエ・メシアンの音楽からの連 想だろう。もっと話者自身の姿や行動が前に出てきたら、よりイメージが動的にな り、迫力を生んだのではないか、とも思った。  村野美優さんの『草地の時間』も読んだ。簡明で澄み切った文体で、事物の思い がけない変化や変身が描かれる。その手際の良さに驚く。周りを幾重にも取り囲ん だ透明な襞に、事物をさっと隠したり、ぱっと変化させたり、という感じだ。  詩誌『びーぐる 第11号』も読んだ。執筆者が多く、同人誌というよりは商業 詩誌に近い印象を持つ。詩人たちに、昔書いた(初期の頃)詩を持ってこさせ、コ メントさせる特集が興味深かった。言葉の運びは未熟でも、個性は既に出ているも のだ。  ぼくも参加している同人誌『もーあしび 第15号』にはバラエティ豊かな作品 や散文が載っているが、今回は李幸子さんの「ほんの少し」という作品に注目した。 李幸子さんは以前は「泥C]というハンドルネームのような名前で創作していたが、 名前を変えた。出自を明らかにしたことで、言葉が率直になり、同時に繊細なシチ ュエイションが描けるようになった。今回の作品「ほんの少し」は、男性の友人( ちょっと頼りなさげ)が冷蔵庫の冷凍庫の氷を、古い奴から使わなきゃいけないの に、奥の氷を出す力が足りなくて、どうしても新しい奴から使ってしまう、と語っ ていたことに、10年後の今になってようやくコメントするという内容。自分のこ とでいっぱいいっぱいで他人のことまで気が回らなかったことへの悔恨が呟かれる。 たいしたことではないのだが、しかし人生にとって実は根本的な問題、それを鋭く 突いていて、どうかすると読んでいてちょっと泣きそうな気分になる。余裕がなく て他人を救えないということはあるものなのだ。今後の展開が楽しみな作品だった。  そしてこれを書いている間、野村尚志さんから送っていただいた弾き語りのCD を聞いている。シンプルなコード進行、リズム、メッセージのフォークソングだが、 声に感情がこもっていて、聞かせる。全国を渡り歩いて歌った記録のようだ。お客 さんとの素朴なやり取りも収めれている。今回じっくり聞いてみて、ギターがうま いのに驚かされた。激しく歌っていても、パターンが少しも崩れず、しっかり声の 情感を支えている。そうかと思うと、囁くように歌う歌も味があってよかった。  土日は、実家に帰り、猫のファミとレドの相手。ファミはますますどっしり落ち 着いてきて、ネコジャラシにもさほど関心を示さなくなった。でも、家の中の探検 は相変わらず好きで、家の中に新たな「隙間」を見つけるととことん潜り込もうと する。レドはますます食いしん坊・甘えん坊になったが、写真嫌いが治らないのは なぜか。カメラを向けるとすごい速さで逃げてしまう。野良猫時代に、人から石を ぶつけられた経験でもあるのだろうか。土産に持って行った洋ナシのジュースは好 評でした。