2011年11月

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11月23日(水)
 昼過ぎまで寝てちょっと仕事。それからイメージフォーラムにドキュメンタリー
映画「アンダー・コントロール」(フォルカー・ザッテル監督)を見に行く。
 この作品は脱原発の国ドイツでの原発事情をレポートしたもの。原発推進でも反
原発でもない。原子力発電所というものがどのように運営され、どんな問題があり、
経済的にはどんなふうに成り立っているのかなどを客観的に映し出していく。原発
で働く職員たちは、安全のためにこれでもかとばかりの工夫を凝らし、誠実な態度
で勤務している。テロで飛行機が突っ込んでくることも想定し、煙幕を張る仕掛け
もある。しかし、それでもひやっとくる瞬間はどうしてもある。ちょっとでも事故
が起こったら、職員は全員退避しなければならない。映画でも、システムがうまく
いかなくなる瞬間が捉えられていて、緊張が走る。原発推進派の国際会議の様子は、
国際世論が原発に対して必ずしも否定的でないことを表している。原発職員らの愚
痴も面白い。核廃棄物が保管された地下の倉庫は、恐ろしさを感じさせる。
 むしろ推進派の人間の主張を多く取り上げているにもかかわらず、ここまで運営
や廃棄物の保管が難しいのなら、原発は断念せざるを得ないな、と思わせる。事実
を積み上げていくことにより、原発の怖さを実感させるのだ。日本でも、反原発を
叫ぶだけでない、こんな映画ができないものか。

11月22日(火)  今日は一転してクラシック。それもベルリンフィルだ。  退社後、大急ぎでサントリーホールへ。指揮はサイモン・ラトル、曲目はマーラ ーの9番。  この曲はマーラーの交響曲の中では一番難解な構造の作品で、特に一楽章は調性 も不安定、ピアニッシモからメゾピアノをいったりきたりしたかと思うと急に盛り 上がる、といった感じで、マーラーというより初期シェーンベルクのような音楽だ。 デリケートな性格の曲なので、演奏がまずいと砂を噛むような響きになってしまう のだが、さすがはベルリン・フィル。どんな細かいパッセージでも音の輪郭がクリ アでリズムが正確。音がそろいすぎていて、気味が悪くなってくる程だ。ラトルの 指揮は、マーラーの「20世紀的側面」を強調したものだったように思う。調性が 曖昧になる部分が続くところでは、その「曖昧さ」を「くっきり」と浮かび上がら せ、変則的なリズムが際立つ部分では、まるでストラヴィンスキーのように歯切れ がいい。マーラー特有の退廃的なムードは余り感じられず、マーラーが施した工夫 をわかりやすく示してその先進性を強調するような演奏だった。  うまい、とにかくうまい。遅いテンポの弱音が続く部分でもちっともダレない。 音楽に感動する前にすごすぎる音響にしてやられた、というところもあった(笑)。 いろいろうまいオーケストラは聞いてきたが、やはりベルリン・フィルはうまさと いう点では別格だ。しかし、マーラーは美しさより官能性が際立つところがあって もいいのではないか、という気もした。  終わって、守屋さん、小島さんといつもの中華料理店で食事。あんず酢ビールと いうのがおいしかった。
11月21日(月)  退社後、坂口勝『Piece of Tresure 2』を聞きに吉祥寺のスターパインズカフェ へ。ミュージカル俳優&タップダンサーでもある坂口勝のロック・ライブで、知り 合いのピアニストの千葉香織さんも参加している。  前半はオリジナルも交えたギトギトのロックナンバー、後半からはヴァイオリン やキーボードも加わって、「天空の城ラピュタ」のテーマソングなどを含む柔らか な感じの曲も混ぜた選曲だった。坂口勝のヴォーカルは、時々音程が怪しくなるこ ともあったが、パワフルに歌いきって気持ち良かった。バックミュージシャンたち も、それぞれテクニックがしっかりしていて安定感があった。たまにはロックに痺 れるのもいいものです。  帰りに九州とんこつラーメンの店に寄って帰宅。
11月20日(日)  猫のファミとレドに会うための恒例の(?)里帰り。両親が出かけていて、ぼく が鍵を開けるとすぐ二匹が出迎えてくれた。  レドは相変わらず食いしん坊で、人間がご飯を食べ始めると「何かくれ」と言わ んばかりに寄ってくる。甘えん坊も相変わらずだったが、ファミの様子はちょっと 変化してきていた。  余り甘えなくなり、撫でていても不意に体をひねってどこかへ行ってしまうこと がある。しかし、ぼくが個室で本を読んでいたりすると必ず現われてかまってもら おうとする。でも、かまいすぎるとまたぷいっとどこかへ行ってしまう。まさに猫 的(!)な態度。以前は外に出せ出せ、という仕草をしていたが、最近はそうでも なくなり、家の中のパトロールにひたすら精を出すようになった。性格の違いが本 当に面白い。  食事の時に、伊勢原の柿がデザートに出たが、しゃっきりとした甘さですごくお いしい。秋の果物って感じですね。  嬉しいことがひとつあった。  ぼくの詩集を父親が気に入ってくれて、何と染織の仕事をしている同級生の女性 の方(80歳!)に見せたらしい。すると、その方も気に入って下さって、手紙を 下さった。ぼくは基本的に「人」が好きであり、だから「ひとりごと」が「ひとり ごと」でなくなって読者と会話を交わす感じになる、という感想が綴られていた。 いやあ、驚きました。意図したことをそのまま汲み取っていただいてありがとうご ざいます。現代詩を読まない方、しかもご高齢の方でもわかって下さるんですね。 詩を書いていて、こういうのが一番嬉しいです。  夕方に東京に戻り、サルサバンドの練習へ。
11月11日(木)  恒川光太郎先生インタビューのため神楽坂の双葉社へ。  対象となる本は短編集『金色の獣、彼方に向かう』と怪談えほん『ゆうれいのま ち』。インタビュアーは東雅夫さんでタカザワケンジさんが原稿を担当する。恒川 先生と編集の大城さんに挨拶し、早速インタビューが始まった。岩崎書店の方々も 来られている。  恒川先生は短髪で、穏やかな眼差しの方でだった。ゆっくりと言葉を選んで話さ れるが、目の奥に強い個性を感じさせる。『金色の獣、彼方に向かう』は、サンカ、 鼬、そして樹海をモチーフにした作品集で、筋立てはかなり陰惨だが読後の印象は むしろふわっとしていて軽みさえある。登場人物たちが世界の不条理性を受け入れ、 運命に従っているかのようだ。独自の宗教的な感覚がこの作品集においても光って いる。  怪談えほん『ゆうれいのまち』は、子供たちが、文字通り幽霊の町に足を運んで しまうというお話で、ゾッとすると同時に、ここでもやはりある種の諦観が示され ている。  作品のプロットを完全に作り上げてからでなく、書きながら構成を考えていくと いうお話に納得。詩にも通じる態度だと思った。  インタビュー後、「小説推理」の平野さんにも挨拶。
11月6日(日)  「鈴木志郎康作品上映会 極私点360°」のEプログラム「増殖)n乗 」を見に、 イメージフォーラムへ。「時には眼を止めて」「枯れ山搦めて」「気息の微分」「 風を追って」の4作品が、「反復や増幅、連鎖のイメージ」という観点からセレク トされた。こういうグルーピングは個性的で面白いと思う。が、企画者は視覚的な 面からこれらの作品をまとめたようだが、ぼくは「時間」の扱いをテーマにした作 品が集められているように感じた。  「時には眼を止めて」での、花の生育と人の欲望の関係、「枯れ山搦めて」での、 若い女性たちの成長ぶりと植物の枯死―芽のサイクル、「気息の微分」での、カー ボンが水分を吸うことによってパイプが裂ける過程、「風を追って」での、様々な 意味合いでの風の変転、全て、「時」を強く意識することが根底にある。  志郎康さんの映画ほとんど全てに言えることだが、一本の映画として流れる時間 と、撮影された個々の映像の中に流れる時間が異なるものなのだという単純な事実 が、観客の前にぐいと突き出されている。観客は、映画を見ている間、自分にとっ てこれらの映像を「見る時間」が自分の人生の中から割かれていることに気付かさ れる。一本の作品の時間、作品の中の個々の場面に流れる時間、観客が映画を「見 る」時間が、緊張を保ちながら平行して進行することになるわけである。劇映画で は、異なるこれらの時間の区分は意識されない。観客はストーリーやキャラクター の魅力に没入し、我を忘れ、文字通り「時がたつのを忘れて」しまう。しかし、志 郎康さんの映画では常に覚醒が促される。観客は、自分が生きている時間と見てい る映画が進行する時間、映画の中に登場する人や事物に流れる時間を、それぞれ噛 みしめることになる。志郎康さんは映画の中に、様々な視点を用意するので、格納 された時間も様々だ。映画は、「時間のデパート」のような様相を呈す。時間芸術 としての映画の姿が、露わにされるわけである。  終わって、詩人の渡辺洋さん、毛利珠江さんと挨拶。帰宅し、雑用をしてからサ ルサバンドの練習のため経堂のスタジオに行った。今日は参加人数が少なかった。
11月5日(土)  友人の夏原さんに誘われて、アートの催し「黄金町バザール」を見に行く。「黄 金町バザール」は、横浜市黄金町が地域の振興のために催したもので、黄金町から 日ノ出町までの道沿いに、小さな美術展を点在させるというものである。作品の内 容も面白いが、何より建物が面白い。民家のようであったり、バンガローのようで あったり、旅館のようであったり、お化け屋敷や忍者屋敷のようであったりする。 昭和30年代風の下宿のような建物では、風呂が作品として展示されていたりする のだ。つまり、場所の選定、建物の造形から既にアートが始まっている。そして一 定期間のうちに一定の場所で創作するという条件により、場所に見合った展示方法 が工夫されている。単にいろいろな作品を楽しむのではなく、場を活用したアート を楽しむのがこの催しの大きな特長だ。  「遺影写真」の展示とか、たくさんの小物を紐に結んで天井から吊るす作品とか、 ネズミなどの動物のオブジェを群れさせる作品とか、とにかくアイディア勝負の魅 力的な作品が多い。そして地域の歴史や地理をテーマにしたものももちろん多かっ た。こういう人間臭いアートが、最近、一番面白い。  見終わって、夏原さんと喫茶店で雑談をした後、関内駅までぶらぶら歩いた。あ の辺りは昭和っぽくて面白いですね。
11月4日(金)  退社後、「鈴木志郎康作品上映会 極私点360°」のCプログラム「好き人」を 見に、イメージフォーラムへ。この連続上映会は構成がよく考えられていて、志郎 康さんの作品が傾向別に分類されている。ここでは、好きな人、親しい人を中心に 据えた作品が集められている。上映されたのは「日没の印象」(奥様の麻里さん)、 「オブリク振り」(詩人の川口晴美さんと岸利春さん)、「玉を持つ」(3分の短 編。名前を忘れてしまったが若い女性)、「荒れ切れ」(詩人のねじめ正一さん)、 「戸内のコア」(詩人の福間健二さん)。 これらの作品で面白いのは、愛情のある相手を撮っていても、決して相手に入れ込 みすぎず、つまり相手を「自己化」せず、相手は相手、自分は自分と、淡々として いるところであろう。相手にぎりぎりまで近寄って、相手の人間の本質に迫りなが らも、同調することはしない。相手と自分を大きな核とした、ピーナッツのような 形の作品なのだ。そして、相手と自分の間には「小さな核」もたくさんあり、作品 の味わいを複雑なものにしている。  終演後の福間健二さんとの対談も面白かった。帰り際に詩人の呉生さとこさんを 見つけ、駅まで一緒に歩く。
11月2日(火)  退社後、テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団 の演奏を聞きに、サントリーホールへ。  曲目は、ロッシーニ「セヴィリアの理髪師」序曲、メンデルスゾーン「ヴァイオ リン協奏曲」、ストラヴィンスキー「春の祭典」という、ポピュラーな名曲を集め たもの。  とても鳴りのいいオケで、分厚く、艶っぽい響きが印象的。ロッシーニでは軽妙 でユーモアに富んだ演奏が楽しめた。木管がとてもよく歌っている。メンデルスゾ ーンでは、庄司紗矢香がよく考え抜いた抒情的な演奏を披露。ちょっと線が細いか なあという部分もあったが、細かいところまでよく練り込まれた演奏だった。クレ ーメルにやや近い感じもあった。圧巻は休憩後のストラヴィンスキー。大音量の豪 快な演奏なのだが、決して音が割れない。豊麗で艶めかしさのある「祭典」で、現 代音楽臭さが全くないのがいい。やはりストラヴィンスキーは、リムスキーやムソ ルグスキー、チャイコフスキーを生んだ国の作曲家なんだなあ、というのがしみじ みとわかった。アンコールはエルガーの「ニムロッド」。「祭典」の興奮を静かに 鎮める、見事な選曲。弦の響きが豊かで美しい。  終わって守屋さんたちといつもの中華料理店へ。守屋さんにはいつもコンサート のチケットを取っていただいているが、ハズレが全然ないのがすごい。10月11月は コンサートにたくさん足を運ぶが、次は何とベルリン・フィルだ。