2020.12

2020年12月

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12月30日(水)
 大晦日。遅い朝食の後、住所不明で戻ってきた年賀状を出し直し、トランペ
ットの練習。メルマガのコラムを書いて、本棚の整理。それから徒歩で武蔵小
金井駅前に行き、ヤマダ電機で父のためにICレコーダーを買う。その隣のレコ
ファンで川本真琴の昔のCDが安く売っていたのでそれも買う。それから喫茶店
に入り、備え付けのゴルゴ13を読む。帰ってコラムを仕上げ、夕食。年越し蕎
麦。ダシが効いていておいしかった。紅白もちょっと見たが、新しい歌はやた
らと抽象的でストーリー性に乏しく、余り印象に残らない。
 コロナで大変な一年でしたが、本年はお世話になりました。来年もどうぞよ
ろしくお願いいたします。
12月30日(水)  冬休み二日目。朝食後窓拭き。ウチは無印の「窓の家」というシリーズの住 宅なので窓をきれいにするのはちょっと大変だが、頑張った。その後トランペ ットの練習をし、昨日のシチューの残りで昼食。YouTubeで森本英世+敏いとう ハッピー&ブルーを検索して聞く。男性がなよなよした振りで二股かけられた 女性の哀しみを切々と歌い上げる。今では考えられない、フェミニズム的に問 題ありげな歌だが、この徹底したなよなよぶりは破壊的な説得力がある。夕方 ウォーキングしてガストでメルマガのコラムを少し書く。アンナ・カヴァンの 『氷』を読み始める。夕食は豆乳鍋。
12月29日(火)  冬休み一日目。朝食後、床拭き。家の全ての箇所を結構念入りに拭いた。く たびれたが床がぴかぴかになって嬉しかった。床拭きはやった分だけ結果が見 えるので好きだ。私の部屋の床が一番汚れていた(笑)。午後、小金井公園に ウォーキング。途中くら寿司で昼食。6皿食べて税込み660円。安い。レーンに は寿司以外のハンバーグとかスイーツもいっぱい流れている。子供連れが多い が、従来のお寿司好きな客以外を取り込もうと進化してきた結果なのだろう。 小金井公園は結構人出があり、特に子供たちが遊ぶ「わんぱく山」は盛況だっ た。ドッグランもしばらく眺めていたが、たくさんの犬たちが遊んでいた。体 の大きな黒い犬がメス犬らしき茶色の中型犬を追いかけまわしていてちょっと 危ないかなと思ったが、飼い主が気が付いたようだった。景色を楽しんで帰宅。 ガストに寄って読書。ポー小説全集の3巻を読了。ポーという人はとにかく読 者にアピールするということを第一に考えていた作家という印象。夕食はシチ ュー。 「わからない」詩についてのメモ。  少し前に「自分の書いた詩がわからないと言われた」旨のツイートを読んだ。 うろ覚えだが、内面の奥底のごく微妙な事を言葉にするのだから他人にとって わからない詩になるのは仕方ないし、それが詩にとって悪いこととも思わない、 といった論旨だった。それについて、鈴木志郎康さんの「現代詩の理解」を援 用しながらの私の考え。  まず、自分が体験したこと・感覚したことが他人にそのまま伝わることはあ り得ない。現実での体験や感覚はあくまでその場のことであり、自身でさえも 完璧に捉えることは不可能だ。だが、その現実のでの体験や感覚を基に詩を書 けば、現実のものとしては伝わらないけれど、「言葉の体験」として他人と共 有するできる。つまり、詩はその起源である現実から切り離されることによっ て、「言葉の体験」として他人と共有可能になる。  「わからない詩」というのは、そのわからなさのケースにもよると思うけれ ど、往々にして詩がそれが生まれた現実と切れておらず、「言葉の体験」とし て自立できていない状態を指すのではないかと思う。念のため言っておくとこ の場合の「わかる/わからない」は詩の言葉が既存の意味内容の文脈に言い換 えられるといったこととは無関係である。  日常的な意味の道筋をとことん破壊するタイプの詩、例えばシュールリアリ ズムの詩が特にわかりにくいということはない。日常を離れた夢のような世界 を読者と共有したいと思う強い気持ちがあれば、「言葉の体験」としては伝わ るだろう。  詩の言葉というものは、ポスターの標語のように自明の内容が伝わればいい というものではない。むしろ心の最も秘められた部分こそが内容となるだろう。 しかし、表現とは「表に現す」ものであって自閉するものではない。伝えると いう行為によって、詩人は最も孤独な状態から社会的な存在になるのである。 そのためには、詩人は起源である「生の現実」から離れ、「言葉の現実」とし て詩を構築し、「言葉の体験」として他人と共有できるよう工夫を凝らさなけ ればならない。私はそんな風に思う。
12月27日(日)  朝食後、年賀状作成。ラベルのプリントの仕方をすっかり忘れていてネット で調べながら行う。会社の取引先に出す年賀状も作成する。終わって醍醐で天 ぷらつきぶっかけおろし蕎麦を食べる。帰りに図書館に寄って本を借りる。帰 ってウディ・ショウのカルテットの凄まじいライヴのCDを聞き、トランペッ トの練習をしてからガストでポーを読む。メルマガのコラムの冒頭も書く。夕 食は塩鮭、パプリカとキノコの酢漬け、豆腐とキノコの味噌汁、サラダ。
12月26日(土)  年末が近づいている。朝食後、運転と掃除。昼食に昨夜の残りのビーフシチ ュー。おいしい。その後、カフェスペースのある写真屋さんで読書・夕食は豚 の焼肉。デザートで実家からいただいたカキ。 ツイッター上で詩は「わからない」からこそすばらしい、といった意見を見 て、それは違うなと思い、表現の「わかる/わからない」についてツイートす る。 よく芸術作品について「わからないけどいい」という言い方をする人がいる( 私もした)。でもこれは本当は間違いで、わかるから良いと感じるのだ。良い、 と思った時点でその作品をその人なりにわかっている。わからないけど良いの ではなく、わかるから良いのである。ここは芸術の鑑賞のポイントだと思う。 この場合の「わかる」は、表現が既知の意味内容に容易く還元できる、という こととは異なる。表現とは内的な訴えを虚構を通じて他者に手渡すこと、日常 のコミュニケーション手段では伝えられない訴えを「表に現す」ことである。 具象には具象なりの、抽象には抽象なりの、訴えの手渡し方がある。既知の意 味内容では説明できない訴えを「表に現し」、他者に手渡すことができた時、 表現は成功したと言える。つまり「わかる」。 多くの「難解な」現代アート、特に現代詩にとって問題なのは、「わからなさ」 の受け皿として安易に「作者の内面」が措定され、関係者の間(つまり同業者) では逆に「わかりやすく」なってしまっていることであろう。これは「作者の 面の聖域化」が関係者の間では既知の意味内容と化しているからである。 難解とされているデュシャンの「遺作」を見てみよう。この作品は、顔を隠し た状態の裸の女性が手にランプを持ち戸外で足を広げて寝そべる光景を描いた オブジェである。遺言により死後公開され、フィラデルフィア美術館の壁の穴 からしか覗けない。私はレプリカを見たことがあるが、私の考えではこの作品 は極めて「わかりやすい」作品だ。 描かれた光景は意味ありげだが、その意味内容を特定できない。特定できない とわかっていてもそれが象徴するものをつい探したくなってしまう。死後公開 ということで著者から談話を聞くことは不可能だし、特定の場所にわざわざ足 を運ばないと(しかも一人一回ずつしか)見ることができない。 意味内容の不特定性と発表や鑑賞における儀式性が、あっけらかんと「わかり やすく」示されている。それがこの作品の意図であり、そのことが誰にでもひ と目で「わかる」から、魅力的なのだ。 そして解釈はまた別の問題だ。作者は、意味ありげだが意味を特定できない作 品を儀式的な振舞い込みで残すから後は勝手に楽しんでねと言っているわけで、 ここから何を引き出すかは鑑賞者の腕にかかっている。様々な解釈が可能であ り、そんな楽しいことが可能なのは、私の考えでは、この作品が表現として「 わかりやすい」からである。
12月20日(日)  朝食でバンドの渡邊さん作のシュトレンをひと切れ食べる。本格的な造りで 実においしい。その後コーヒーを飲みながらトランペットの練習をし、詩作。 没頭し、午後完成。徒歩で武蔵小金井駅へ。途中、回転ずし店銚子港で遅い昼 食。くまざわ書店に寄って『怪と幽』を買い、それから駅前にできたショッピ ングセンターをうろうろし、妻のためのクリスマスプレゼントを買う。寒くな ったのでバスで帰宅。夕食はカツオの土佐づくり、豚肉のみそ炒め、ミネスト ローネ、サツマイモとナッツのサラダ。
12月19日(土)  朝食後、運転と掃除。トランペットの練習をし、ウォーキング。山田うどん でかき揚げ丼を食べ、文教堂で本の注文をする。コロナ禍以来、文教堂はいつ も混みあっている。コロナで外出できない人が読書の楽しさに目覚めたのか? 帰って詩作。骨組みまで書いたところで、少し早めのクリスマスディナーに行 くために国分寺で妻と待ち合わせ。だが、財布を忘れたことに気づき、取りに 戻って待ち合わせに遅刻し、妻に叱られる。すみませんでした。それから新橋 のコンラッド東京にある中国料理「CHINA BLUE」へ。洒落たバーのような内装 で夜景がきれい。シートも良かった。料理はどの皿にも新鮮な趣向が凝らされ ていて、おいしいと同時にワクワクさせられる。特に緑茶を飲ませて育てたと いう豚の中華風ステーキが絶品。ひと皿の量が少なめに感じたが、デザートの お団子がボリュームがあっておなか一杯に。女性客向けにここでバランスとっ てるんだなあと感心した。もちろん味もよし。黒酢ドリンクが添えられていた が食後胃がもたれないためだそう。おいしいものを食べると元気が出ますね。
12月13日(日)  江古田バディでサルサのライブ。詩集「here」の御礼状を書いてから、午後 4時に江古田に到着。コロナ禍で来られないメンバーがおり、いつもより少な い人数でのライブになる。リハーサルをし、ラーメン店で食事。近くの喫茶店 で時間を潰す。対バンのラテンジャズバンドの演奏を聴き、8時半頃演奏スタ ート。お店もお客さんも衛生面に気を使ってくれた。楽しく演奏できたが、人 が少ないとちょっと軽い感じになってしまうかな。でもお客さんが盛り上げて くれてうれしかった。終わってビールを飲み、帰宅。
12月12日(土)  朝食後、運転と掃除。武蔵小金井のシタールでマトンカレーを食べた後、伊 勢原の実家へ。コロナ禍でしばらく父に会ってないので挨拶がてら様子を見る のが目的。亀谷万年堂で和菓子を土産に買う。父は元気そうだったが、足腰や 指の関節は痛むそうだ。用心しながらしばらく話し、ファミちゃんと遊ぶ。フ ァミも元気そうだが、なんというか成猫のどっしりした構えが色濃く出てきた。 もう高い冷蔵庫の上には上らず、戸が開いていても外に出ようとしないらしい。 今の生活パターンにドハマリしているのだろう。以前より人懐こくなった感じ もある。帰って夕食。キャベツとチキンの煮込み、ゴボウと豆腐の味噌汁。夜、 宿久理花子さんの詩集「here」を読み、礼状を書くが長くなってしまって明日 に持ち越すことにする。
12月6日(日)  朝食後、運転をして、高野尭さん、松尾真由美さん、糸井茂莉さんの詩集 を読み、感想入りの御礼状を書く。Youtubeで浅川マキ・近藤等則の「NapCat」 を見つけ、全曲聞く。近藤のアコースティック演奏が聴ける貴重な作品。メチ ャウマ。奏法も曲も斬新だった。 夕方、サルサバンドの練習へ。
12月5日(土)  小雨。遅く起きて朝食後掃除。その後ウォーキング。醍醐で天ぷら蕎麦を 食べる。気になっていた梅専門店「梅の里」でにんにくの梅漬けを買う。帰 ってトランペットの練習をし、詩集を読み、水田宗子さんに礼状を書く。い ただいてからしばらくたつので申し訳ない感じだ。夕方、夕食作り。あじの 開き、肉野菜ポン酢炒め、インゲンと卵の味噌汁。