<灯台>に戻る<TOP>に戻る
“暗記しちゃうほど、読み返した本”「書評のメルマガ」より
現代詩文庫「吉行理恵詩集」(思潮社)
 ページを開くと「“外”が恐い」というか細い声が聞こえてきそうな気がす
る。そしてその声の切実さに魅入られたようになって、いつまでもいつまでも
視線をページに釘づけにさせてしまう・・・。
 吉行理恵の詩を読むことはわたしにとって、“外”がいかに恐ろしいいもの
であるかを認識することである。では、“外”とは何だろう。

 わたしは青い部屋の中です 
  雨戸に叩きつけるのは雨の音でなく
 気の狂れたばあさんのわめき
 <むすこをかえせ むすこをかえせ>と
 わたしの壁にぶつかるから
 かたく雨戸をしめて
 わたしは青い部屋の中です

 息子は帰って来ないのでしょうか
 かくした女(ひと)は わたしではないのです
 何故なら青い部屋はひとりしかはいれないから
 ここはどこまでも青く
 柩もなければ 隠亡もみあたらないのです
           「青い部屋」より

  この有名な作品において、“外”は何もかもなくした“老い”であると、と
 りあえずは言うことができるかもしれない。「青い部屋 」は「青春」の比喩と
 いうことになり、老いさらばえる恐怖をうたった詩であるとひとまず言うこと
 ができる。しかし、事はそう単純ではない。だいたい青春期を必死で立て篭も
 るべき個室になぞえる感覚が尋常でない。「わたし」は「気のふれたばあさん」
 の中に、未来というより現在の自分の姿を既に見出してしまっているのではな
 いだろうか。世間並みの人として必要な資質を欠いたまま人生の出発点に立つ
 恐怖のようなものが感じ取れ、戦慄してしまう。「青い部屋」はぶち破られる
 ことを前提とした比喩として書きつけられたのだ。
 第一詩集「青い部屋」を 出した時、作者はまだ二十代前半だった。

 ふいに 切符の買い方が
 わからなくなってしまったから

 薄暗い改札口に
 私はしゃがんでしまいました
「改札口で」より

  この詩では、自明な日常性そのもの“外”として捉えられてしまっている。
 友人の名をうっかり忘れてしまう位のことはあっても、「切符の買い方」とい
 った生活習慣を忘れることができるのだろうか。この前の行で「私」は、「ど
 こまでも空は 澄んでて/豆の花の咲き乱れている/子羊のいる場所(ところ)
 へ」行こうとしていることが示される。それも「黄色い服」を着て、「つばの
 広い帽子をかぶって」である。そんな現実ばなれした脆いナルシシズムばかり
 を溜め込んでしまったがために、世間一般から落ちこぼれた人間になり果てよ
 うとしているのか? いや、ちがう。「世間一般」を受け入れることに失敗し
 たがために、ナルシシズムという防衛規制を身につけざるを得なくなってしま
 ったのではないだろうか。

 私は
 桜貝をみつけたのです

 足音のように
 波が寄せてきたら
 この桜貝を さらっていくでしょう

 渚で
 私は
 桜貝をみつけたのです

 星は
 空に出ていないのですから

 やがて雨雲が 叫びをあげます
「怖れ」全編

 その結果、こんなささいな出来事に異常な執着を示すことになっていくので
 ある。この詩の情報量の少なさは一体何なのだろう。この詩全体で空行含めて
 十五行しかないのに、ほとんど同じ内容の連が繰り返されている。しかも「私
 は」「渚で」「星は」のたった二語でまるまる一行使ってしまっている。これ
 はどういうことだろう・・・。
 恐らく作者は、最早内心の空虚を相手にする他なくなった人間の切迫した心
 情を表現するために、故意に極端に少ない語彙の選択・非効率的な改行を行っ
 たのだ。この場合の“外”は、意志のままにならない自然の営みを指すことに
 なる。が、その裏にあるのは言うまでもなく、半ば抽象化された世間の営み一
 般である。「私」は桜貝の行く末を案ずるしかない所まで追いつめられている。
 それも自ら手出しして桜貝を拾うことさえできない程に。能動的な働きを示す
 自信を世間における人との交わりの場においてあきらめさせられた「私」が、
 それでも残された力を振り絞って生きていこうとする姿が、この詩に表わされ
 ていると言えないだろうか。「私」に残されたわずかな力=ものを見聞きする
 力が、及ぼす先を、詩行は丹念に追っていく。まるでカメラのように。「星は
 /空に出ていないのですから」といった平凡そうな呟きも強い緊張感を持って
 記録される。客観的な意味での事象は軽微でも、行為者にとっては生死を分け
 る程の一大事なのだ。
この詩には素朴な見かけとは裏腹に、張り詰めた心理を表現するための高度
 な技巧と精緻な構成力が存分に示されている。

 これらの詩編はいずれも「です・ます」体で書かれ、口調は優しく、柔らか
 い。描出されるイメージも、少女趣味といっていいような極めて耽美的なもの
 だ。しかし、その奥に潜む心は強い緊張に打ち震えている。言わば、人生の後
 退戦を強いられ続けた者が、生きるための唯一の武器として「ナルシスティッ
 クな言語美」にすがりついた、という感じなのだ。自分を受け入れることを拒
 否する“外”への恐怖感が、攻撃的な外見を廃した?引きこもり?の美に向か
 わせたのだと言えるだろう。吉行理恵の詩の耽美的な装いは、想定される?外?
 の暴力から身を躱す一瞬の「防御姿勢」だと思うのである。故に吉行理恵の詩
 に は、穏やかな光景を描いている時でも、反射的な?動き?が見られる(肉
 食動物の存在に怯えながら生活する草食動物のカンのようなものかもしれない)。
 様々な事情が重なってコンプレックスを溜め込んでしまい、自分の内面以外
 の世界が全てよそよそしい?外?に思えてしまうのだろう。余りの痛々しい様
 子に思わず「私」の手を握り締めてやりたくなる−それが吉行理恵の詩の魅力
 なのだ。

  吉行理恵は1970年に「吉行理恵詩集」を出したあとは余り詩を書かなく
 なり、その後小説に転じて芥川賞も取ったが、最近では小説の新作の噂も耳に
 しなくなってしまった。とても残念に思うのだが、柔和な表面の裏に多大な緊
 張を抱えたこの書き方を続けることは容易ではないだろう。それだけに、既刊
 詩集全てに加え、小説・エッセイまでも収めたこの「現代詩文庫」の貴重さは、
 何物にも代え難いように思えるのである。


“私、この本で徹夜しました”「書評のメルマガ」より
粉川哲夫著「カフカと情報化社会」(未来社)
  カフカを「情報操作 」の作家として捉える視点から現代の社会を考え抜
いたこの本は、刊行後10年を経て ますます輝きを増していくように思え
る。情報の授受の如何によって周囲の世界の意味や自分自身の位置がまるき
り変わってしまうことを初めて知らされた衝撃は大きかった。
  著者の粉川哲夫氏は1941年生まれの評論家。「自由ラジオ」という自
前のメディアを主宰していたことでも有名である。

  この本は基本的に、全ての「 戦いたいと思っている人 」のための知的ト
レーニングの本なのではないだろうか。表現活動にせよ政治活動にせよ、或
いは家庭生活を営むとか職場で労働するとかいったミクロな単位での活動に
せよ、何らかの活動をしたいと考える人は全て他人を相手にしなければなら
ず、そこには不可避的に力関係が発生してしまう。その力関係の強者・弱者
を分かつのは、相互の了解事項となる情報の手綱を握れるかどうかであろう。
しかも通信手段が高度に発達を遂げた現代では権力作用の現われ方が複雑に
なり、権力主体が単純に割り出せなくなっている。そこで著者は、カフカの
作品や生涯に即して情報化社会における様々な権力作用のあり方を解き明か
し、大小の権力と戦い抜く術を示唆してくれる。
  論理の方向性そのものは、刊行後10年たった今では珍しいものではなく
なってきているかもしれない。しかし、情報と権力の関連をここまで細かく、
具体的かつわかりやすく追った論考は、まだ出ていないのではないだろうか。

  例えば「城」についてー
 「文学辞典などでは、Kは城から招聘されて遠い道のりを苦労しながらや
って来ると、『あなたは呼ばれてない』と言われ、以後Kの不条理な闘いが
始まる−といった解説が非常に多かった。ところが詳細に読むと、本当は
『Kは招聘された測量技師』などではなくて、それは単なるハッタリではな
いか。考えてみると、Kという男は口先以外には、何の財産もないんです。
そういう人にとって嘘とか、その意味では、彼はそれらを駆使した一種の対
抗的情報操作によってこの村の権力と闘っているとも受けとれます」。
  言われてみるとその通り。我々はカフカをある先入観に従って一義的に読
んでしまいがちなのだが、実はカフカの作品は「語り手=読者=主人公」の
三者の関係が絶えず操作されていて、語り手が常に物語の「真実」を語って
いるとは限らないということなのだ。信じこまされていた情報は虚報であっ
た、などということは我々の実人生においては日常的に起こっていることだ
が、何故かフィクションを読む時は語られた事項を鵜呑みにしてしまう。日
常世界においても虚報によって成り立つ部分は思いの他多いのかもしれない
のに。「おそらく、カフカの世界は、いまやあたりまえの世界になろうとし
ているのでしょう。そうだとしたら、わたしたちは『城』の語り手の位置に
身をおかなければなりません。『城』が謎めいていてはならないのです」。

 またイーディッシ演劇(東欧系ユダヤ人の大衆演劇)とカフカのつながり
を巡る話も面白い。カフカはユダヤ民衆文化から多くの素材を得ると同時に、
その演技の独特な「身ぶり 」に深く影響されたという。カフカが頻繁に観
にいったレヴィ一座は、貧弱な舞台装置のせいで役者の運動空間が極度に制
限されていたこともあって特に、発声や身ぶりの独立した効果に大きな比重
を置いていたらしい。カフカは言葉と身ぶりの弁証法を学んでいったが、粉
川氏は更にそれをブレヒトの異化効果と結びつけ、「少なくとも、出来事を
異化し、読者(観客)をその日常的惰性から覚醒させる点では、カフカとブ
レヒトは共通している 」と述べている。単なる客観的な叙述をするのでなく、
独自な身ぶりで「語る」ことにより、読者が情報の解読に積極的に参加する
ことを求めた、ということであろう。

  セクシャリティの問題も鋭く追求している。粉川氏は、カフカ研究者にし
てフェミニストであるエヴリン・T・ベックに長いインタビューを試みてい
る。ベックはカフカがホモセクシャルであることを指摘した上で、父権制社
会の権力構造の網に捕われる女性たちの位置についてカフカが理解していた
ことを語る。更に、カフカが実生活ではその権力をつきあっていた女性たち
に行使し、特に手紙という手段で女性たちを操り、苦しめていたと語る。
  「カフカを読んだら、『どこで闘うかを選ぶことだ』と自分に言い聞かせ
ます。『注意深くやらないと、がんじがらめになって逃れられなくなる』と
ね。ですから私はカフカを、そうしてはいけないネガティブな例として利用
するのです」。

  もちろん、カメラや電話、コンピューターなどの具体的なメディア機器と
カフカとの関連の問題等についても触れているけれど、それは実際この本を
お手に取ってのお楽しみということにしよう。
  カフカというたった一人の作家を研究することで、世の中の全てが語れて
しまう不思議さにはただただ驚くしかない。それは、カフカがその創作の核
心に据えた「情報操作」の方法が、社会を形成する大小の権力をいかに深く
考察することで生まれてきたかを示すことであるだろう。
  しかし、それ以上にすばらしいのは、著者がカフカの文学の成果を足がか
りにして、権力作用から逃れる術を懸命に模索する姿が窺えることである。
粉川氏はカフカを読みながらどんどん関心領域を広げていき、様々な人と積
極的に対話し、さらに我々が生きている世界ヘのフィードバックを考える。
このような肯定性こそがカフカに欠けていたものであったのであり、逆に言
えば、粉川氏が持つ社会変革への意志を得て初めて、カフカの文学は完結す
るようにも思えるのである。