関口涼子との往復書簡5

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第5回目のメール 市民と積極的に関わりを持とうとするフランスの芸術家たちの姿がうかがえて興味深い です。以前世田谷美術館で「パサージュ:フランス美術の新しい流れ」という展覧会が行 われました。若い美術家たちが、ストリートで市民と接触する痕跡を残した作品群が展示 されていました。アラブ出身の女性が企画した、路上での、道行く人が主体の独自な「フ ァッション・ショー」が印象的でしたね。こうした動きは日本でも盛んになり始めていま すよ。ただ、芸術家が自分のアトリエを公開する、などという、一般人の日常生活に働き かけるところまでは至っていません。社会と表現は二項対立の関係に留まったままですね。 フランスの人の、関口さんの作品に対する反応なども教えていただけると幸いです。 辻和人
関口さんからの5回目の返信 いろいろな興味深いご質問の中での最後のお答えになるかと思います。 フランスの詩人についての話ですが、私は個人的にはフランスの現代詩の中で現在行わ れていることの方に、より親近感を感じます。こちらに来て少しフランスの現代詩を読み 始めるようになって、「知らなかった世界の発見」というより、まるで自分の同志を初め て見つけたような感覚を覚え、びっくりしました。とはいえ、勿論日本とはよって立つと ころの詩の歴史も伝統も、学びまた反発すべき先人も違うのですから、このような印象は 所詮脳天気なものにすぎないのかもしれないのですが。より正確に言うと、フランスで行 われている様々な詩作活動の中でも、私にそのような印象を与えたのも無理はないと思わ れる問題系を主軸に執筆を続けている一部の詩人達がいる、というべきでしょう。例えば *詩という形式・構造についての思索・問題提起がテキストの中で行われている *喩のレベルよりもシンタックス・文法的なレベルでの作業が行われている=イメージの 追求よりも言語そのものを巡っての仕事が作品上に反映される *「詩集」は「幾つかの詩を集めたもの」ではなく「最初から一貫した構造とテーマを持 って書き上げられた一冊の書物」だというコンセプトがはっきりしている(これは70年 代から特に。通常使われている「詩集recueil de poemes」という言葉を用いると怒る詩人 は多い。今は一般的には「詩の書物livre de poesie」と言います)。 *「詩という形式」に対する考察があるということは、それに対しての他のジャンルへの 考察があることでもあり、さらにいままでの「散文」と「詩」という議論を越え、詩人の 側から小説家に「小説」というジャンルの再考を強いるような作品が書かれている。今や もっとも過激な小説はある種の詩人によって書かれていると言ってもよく、また、挑発す る意味で、自分の本に「小説」と銘打つ詩人もいる。 *他言語・翻訳への関心が高く、良い詩人はよい翻訳者であるといってもいいほど(こ れは割と伝統的な部分かもしれません)。 これらは私にとっても非常に重要な部分で、また、非常に触発され、勉強になる部分も 多く、その点では今ここにいることは自分にとってとても大事だと自覚しています。私の 本がフランスで割と評判が良かったのも、このような点を自分が元々根本的な問題として 考えていたため、彼らと関心を同じくする部分が元々自分の作品の中に入っていたのでは ないかと考えています。 ただフランスの詩の世界といっても広いので、私が上記に述べたような部分は、先に述 べたように一部の詩人にとっての関心事です。とくに若い詩人(30代から50代半ばま で)に特徴的な要素で、その中でも何人かそれを率先して行っている詩人がいます。 その一人、日本にも一度来たことのあるオリヴィエ・カディオ(インタビュー記事が一 度「ユリイカ」に出ました)は、10日前に『愛しき者の永続的かつ決定的な帰還』を出 版し、これはメディアでも大々的に取り上げられました(ちなみに、先週彼の朗読会に行 ったのですが、450席の会場が満席になり、立ち見も出て、さらには消防法上入れない 人が続出して大変な騒ぎになったほどです。テキストの構造を明確に立ち上げるような、 実に頭のいい朗読でした)。 彼は前作を「小説」と銘打った人ですが、これは普通の「小 説」の規範からはかなりはずれています。今回はその点少しおとなしくなりましたがそれ でも「小説」からはみ出ていく部分が明らかにあることは間違いない。それでいて、「小 説」読みに消費されうる作品にもしっかりなっています。ここでは「詩」と「小説」とい うジャンルの定義の問題が問われています。常に詩人として取り上げられ続け、それでい て今度の本はほとんど小説のような取り上げられ方をしている、という二重の場にいます。 日本だったら、詩人 が小説を書きました、これはきちんと小説の条件を満たしているので 小説と呼んであげましょう、はいこれからこの人は小説家です、ということになるのかも しれませんが、ここではこのテキストは、まず何よりも一冊の「本」として批評されてい る。批評する方も、これは「小説」であるとか「詩」であるとかの判断はあえて行わず、 一つの優れたテキストとして批評の対象にしているようです。前の作品の時にあえて「小 説」と銘打ったのは、その時期にはまだ「小説」か「詩」かという議論がテキストの前に 来てしまったのかもしれませんが、今回はそのような挑発を行う必要がないほど議論が成 熟してきたのかもしれないと思っています(あくまで推測ですが)。このような中で、私 自身も、これまでだったら自己検閲をおこなって書かなかったかもしれないような方向に まで可能性が開かれつつあるのを感じています。実際にそれを日本語で書けるかどうかと いうのは、また別の問題ですが。 > > また、パリには様々な文化圏から来た様々な人種の人が生活していると思いますが、 その人たちがフランス語で書いた詩に面白いものはありますか。 あります。そもそも、詩の翻訳は(前にも申し上げたとおり、弱小出版社からでがちだ とはいえ)日本より多く、「現代詩」のことを考えたときに、「他の国」の現代詩を多少 は視野に入れずに考えることはできないという量は楽にカヴァーしているようです。大型 書店「フナック」の棚では、少なくとも4分の1が海外詩人の本です。 また、たとえばわたしは、個人的にも、クルド語詩人、トルコ語詩人、ペルシャ語詩人、 アラビア語詩人、またアメリカ人詩人や韓国人詩人でフランス語でも書くという人たちを パリで知っていますが、彼らがフランス語で書く時(または翻訳されるとき)にもたらす ものは、単に外国語で書くときの異質さのみではなく、彼らの母国語の現代詩が抱える固 有の文学的コンテキスト・問題系でもあるわけです。そういった要素がフランス語現代詩 の周縁を支えまた豊かにもし、さらに中心に絶えざる見直しを突きつけることにもなって いるのだろうと思います。 と良いことばかり言っていますが、これは勿論私が外国人で、ある程度は「詩壇」の決 して美しくはない人間関係を見ずに住んでいるからだとは思います。とはいえ、こちらに 来てからの方が、一般に他の書き手との交流は多く、一緒に朗読会に参加することも増え ました。フランスがどうこう、というより、複数の文脈の中に身をさらされ、常に両方の 状況に覚醒的でいなければならない、というスリリングな状況が、今日書き手であること の条件かつ責任であるのだろうと考えています。 関口涼子